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REPORT-レポート

12/8 子どもの読書応援トークイベント 赤羽茂乃氏講演会〈子どもは絵本の中で 人生体験をやるんです〉

子どもは絵本の中で 人生体験をやるんです -絵本画家 赤羽末吉の一本道-

子どもの読書応援トークイベント第2弾として企画した本イベントは、県内外から多くの方にご参加いただきました。

本イベントに先駆けて、当館では11月から赤羽末吉氏の多数のご著書のほか、愛してやまなかったモンゴルの空気を感じてもらうべく、馬頭琴やンゴルの民芸品を展示。また、少しでも赤羽末吉作品に親しんでもらおうと、当館オリジナルのクロスワードを〈むかし話編〉〈日本の神話編〉〈創作物語編〉の3種用意しました。
誰もが一度は目にしたことがあるであろう赤羽末吉氏の絵。絵本デビューに至るまでの道のりや、その後の創作への情熱について、赤羽末吉氏の三男の妻であり、赤羽末吉研究者の第一人者である赤羽茂乃氏にたっぷりお話しいただきました。その一部をご紹介します。

〈表記について〉

赤羽茂乃氏ご著書『絵本画家赤羽末吉 スーホの草原にかける虹』(福音館書店)のプロローグに“本書では、「義父」「義母」ではなく、「父」「母」と表記させていただきたい。「嫁」の立場で、「父」「母」と呼んでしまうことに違和感を覚える方もいらっしゃると思うのだが、日頃、「お父さん」「お母さん」とよんでいたこともあり、私にとっては「父」「母」と書いた方が自然な感じがするのと、あまり「義父」を連発すると、天のどこからか、「なじまんねえ、義父義父って、俺は岐阜県じゃねえぞ、江戸っ子だい」などと言う声が聞こえてきそうな気もするので、ご了承いただきたい。”と記されています。
赤羽茂乃氏のお気持ちを尊重し、本講演会の記録も「父」と表記させていただきます。

まっすぐでない線

赤羽末吉の仕事場の窓から庭が見えます。植木屋さんが来て生け垣を刈っていると、父は「おいおい、ここが曲がっているぞ」などと、わざわざ出ていっていちゃもんをつけるのです。父は、いつも「自分はまっすぐな線が引けない」と言っていました。ところが、植木屋さんにはちゃっかり文句をいうのです。木下順二さんが月刊絵本で「赤羽末吉のまっすぐでない線」について、「赤羽さんの真直ぐでない線は、対象を正確に見、または正確にイメージとしてとらえた上で、それを赤羽さんのお人柄の中で一度ゆっくりとふくらました、とでもいうべき的確さにおいて豊かである」と言っています。わかったような、わからないような言葉ですが、『かさじぞう』のお地蔵さんを見ていただくと少し理解できるように思うのです。

父、赤羽末吉は、国際アンデルセン賞画家賞を日本人として初受賞しました。その授賞式に向かう機内で、絵葉書にゆっくりとサインをしている父に、同行した編集者の斎藤惇夫さんが、「そんなにゆっくり書いていたら、着いちゃいますよ」とちょっと意地悪っぽく言ったそうです。父は「斎藤君、絵はね、どれだけゆっくり線を引くかなのだよ」と返したと聞き、私は、父が「自分はまっすぐな線が引けない」と言ったのは、引けないのではなく、引かなかったのだな、と思いました。どれだけゆっくりとイメージを膨らませた線を引くか、それほど気を入れて一本の線を引くのだと、暗に言っていたのではないでしょうか。スーッと勢いよく引く線でも、気持ちはゆっくりと気を入れて引くわけです。そして絵本もそのぐらい気合を入れて描いた絵本なのだと言いたかったのではないでしょうか。赤羽末吉の人生を顧みると、まるで自分が引く線のようにじっくりと紡がれた人生です。そしてそれは絵本と非常に深く関わっている。今日はその関わりをほんの一部ですが、お話ししていきたいと思います。

色使いの妙

ある方が力士の入幕祝いに贈るため、赤羽末吉にデザインを依頼した西陣織の相撲まわしがあります。テレビの相撲中継で、白地に桃太郎がデザインされた、そのまわしが映し出された時、父は弟に、「これは白だからいい。白というのはこういう場で一番華やかに目立つ」と言ったそうです。相撲回しの表は白ですが、裏は金龍の模様が織り込まれた真っ赤。背中側の腰のあたりに小さな赤い結び目が見え、さらに、関取が回しを持ち上げて歩くと、赤がちらちらとのぞく趣向です。 赤羽末吉の絵本の中でも、時折、朱や赤が効果的に使われています。『ゆきむすめ』を一例に挙げますと、男の家を訪ねたゆきむすめは異界の雪女ですが、男と恋仲になって女房になる。女房が掛けている細い朱の襷は、ゆきむすめが暖かな人の心を持った象徴として描かれているようです。

着物の裾まわしや半襟などの日本的な美しさについて、父はよく話していました。中でも一番印象的な話が「寿司桶の段」。赤羽家の食卓に寿司桶が置かれると、きまって父は「見てごらん、すばらしいじゃないか。寿司桶が黒だから黄色や赤や白の寿司が映えるんだよ。日本人の美意識というものはすごいもんだね。こういうのを幼い頃から何気なく見て育つんだから。それに比べて、西洋の皿なんざみんな白だろ。あんなのは便器で飯食ってるようなもんだね」と言うのですね。

ユーモア

このような、赤羽末吉の江戸っ子風のユーモアが活かされた絵本に『てんぐだいこ』があります。主人公のげんごろうさんはいたずらが過ぎて、最後は近江のゲンゴロウ鮒になってしまいますが、既に目の離れ方や口のすぼみ方が魚そっくりです。庄屋さんの床の間に飾られた置物のでっぷりとした猫はげんごろうさんの行く末を知っているのか、「お前いつか食ってやるぞ」とげんごろうさんを虎視眈々と狙っているよう。普段は威張っている庄屋さんが平伏してお礼を言っているのも、金持ちの娘なんぞ気立てがいいわけがないとばかり、根性の悪そうな顔に描かれているのも笑えます。げんごろうさんが太鼓をたたいて娘の鼻を低くする場面ですが、後ろの屏風に描かれた天狗が、自分の鼻も低くされては大変とばかりに、逃げ出そうとしています。

父の人生を辿ると、幼少期から接してきたものが絵本画家の種になっていることに気づかされます。赤羽末吉は、1910年、東京神田で生まれ、9歳から深川で育ちました。深川は、材木問屋の旦那衆などに人気の、自由で伸びやかな考え方を持った色町で、そこでの暮らしが、赤羽末吉の絵本画家としての資質、例えば、洞察力や繊細さを大きく育てたのだと思われます。そして、映画や歌舞伎、芝居、豊富な読書、その後の豊かな人生経験などにより、それらはさらに奥行きを増し、後年、絵本制作において“描こうとする物語の底に隠されているものは何か”“物語の本質がどこにあるか”ということを読み解く大きな力になっていったと思われます。

登場人物が同じような作品を比べると、その解釈によって微妙に描き方が違っていることがわかります。例えば、『ねずみのすもう』と『かさじぞう』。『ねずみのすもう』は一見優しそうなじいさんとばあさんの話ですが、実は庄屋のねずみに金を持って来させ、裕福になる話です。赤羽の描く二人の表情はどことなくこすっ辛く、最後の場面は小判の花に囲まれ満足そう。一方『かさじぞう』のじいさんとばあさんは、普段着、寝間着、正月の晴れ着、全部同じ着物です。地蔵さまの贈りものの豊かさに溺れず質素なまま。赤羽末吉はこの昔話の根底には東北や北陸地方に多かった“貧しい故の子殺し=間引き”があると考えました。地蔵さまはそういう子どもたちを極楽浄土に導く仏で、笠を被せることは亡くした子どもたちへの供養でもあったのです。それは、じいさんとばあさんにとって自然に湧き上がる感情であり、喜びでもあった、というのが赤羽の解釈なのだと思います。地蔵さまの足元に墨が滲んだ丸い影のようなものが描かれています。私には、それが地蔵さまにすがっている間引かれた子どもたちの魂のように見える、そんな捉え方もできるのではないかと思うのです。

赤羽末吉は末坊と呼ばれ、家族はみんな歌舞伎や落語、映画などが好きだったそうです。5歳の頃に「野晒し」という落語を映画に仕立てたものを見て、「とても面白く今でも覚えている」、とよく話していました。昔ですから、画面の横で弁士が語るわけです。その語り口の面白さ…。そういうところにも赤羽のユーモアの根っこがあったのではないでしょうか。

言葉が少ないアニメーション的な絵本『そら、にげろ』について、古関知子さん(東京子ども図書館理事)が次のように書いています。「えっさかほっさか、旅人さんの着物から鳥が抜け出す発想は落語の「抜け雀」。山越え、海越えひたすら走る姿は「盃の殿様」。柳家喜多八の出囃子「梅の栄」の節に合わせて背景が書き割りのように画面が動く。最後のページ、旅人さんのホッとしたような、こそばゆいような顔が、一席語り終えた 時の喜多八師匠にそっくり」。幼い頃から晩年まで、ずっと好きだった落語の造詣の深さが作品に活かされているようです。

立ち絵

幼い赤羽末吉、末坊は、太鼓などの鳴り物も入った紙芝居、「立ち絵」が好きで、なかでも「西遊記」が面白かったと言っています。兄が立ち絵の「西遊記」の絵を上手に描くので、自分も一生懸命練習し、絵を描く喜び、楽しみを覚えたとも言っています。色町で、舞子の絵などを描きながら、末坊は日本の伝統的な色彩の美しさに触れ、色彩感覚を身につけていったのではないでしょうか。『くわずにょうぼう』『春のわかれ』『源平絵巻物語』などは、日本の伝統的な色彩の美しさが際立つ作品です。このような幼い頃の経験が、ユーモアセンスや絵への興味、物語への関心、好奇心や冒険心、繊細さや鋭い感性などを芽生えさせ、絵本作家・赤羽末吉の確固たる根となっていきました。幼い頃の経験や体験が人生の基本になると知っていた赤羽末吉だからこそ、エッセイの中で、「子どもの絵本はきわめて大衆的なものだと思う。しかし、大衆的だからといって卑俗であってはならない。絵かきは高邁なる精神で絵をかかねばならない。特に子どもの絵本の絵かきは、そのことがだいじだと思う」と語っています。

ジークフリート

赤羽末吉は13歳で養子に出されましたが、養父との折り合いが悪く、家出同然の日々を送っていました。そのような暮らしの中、15歳の頃、ドイツ映画「ニーベルゲン物語ジークフリート」に夢中になったといいます。この話になると、「感動したね。竜と闘うジークフリートが実に勇壮でね。画面がけぶるように美しいんだ。まさに壮大なロマンだね」と身振り手振りを交え、熱く語りました。アンデルセン賞画家賞の授賞式の挨拶でもこの映画について触れています。「私は今まで、なぜ子どもの絵本の世界にはいったかをよく聞かれましたが、その原因はハッキリ答えられませんでした。しかし、このごろこのジークフリートの影響が大きかったのではないかと思うようになりました。文化の交流というものは、こういうことだと思います。映画も絵本も同じです。私もモンゴルと日本の民話の絵本の英語版を出していますが、その意義の大きさを感じます。」ここでも赤羽は、幼少期や多感な時期に見聞きするものの大切さを実感していたわけです。『ジークフリート』を思い出し、戦争中の戦意高揚に利用され偏見を持っていた日本神話の面白さというものを再認識し、〈日本の神話シリーズ〉を描こうという気持ちになったとも言っています。

旧満州での暮らし

赤羽末吉の人生と絵本を考えた時に、幼少時代と同様に大きな役割を果たしたのが旧満州での暮らしです。1932年、22歳の時に旧満州大連に渡って、敗戦2年後に帰国するまでの15年間を中国大陸で暮らしました。不向きな運送会社勤めの暗い日々に、大連の街で絵雑誌「コドモノクニ」の初山滋の表紙絵と出会います。その絵を見た途端、心に灯がともったように感じ、すっかりやめていた絵を再び描く気持ちになったといいます。末坊は本好きで頻繁に古本屋に出入りしていたので、初山の絵か、童画といわれるような絵を目にし、心惹かれたことがあったのかもしれない。初山滋の絵が赤羽末吉を画家へと導き、さらに絵本の世界へ連れて行ってくれたのです。戦後、初山滋に「そういう訳で、先生は、私の恩人なんです」とお礼を申し上げたそうです。

大連は港町で、港を出入りする荷の税金を安くする、つまり、脱税が運送会社の力量とされていました。赤羽は、脱税の手腕を見込まれ、満州電信電話株式会社に入社し広報の仕事に従事します。その後、画家としての頭角を現し、「満州国美術展覧会」で3回連続特選賞を受賞、日本画家として認められるようになりました。当時満州には社内に著名な画家や作家がいると宣伝になるということで、仕事はほとんどせずに給料をもらい、詩や小説を書いたり、絵を描いたりしている文化人が多くいました。赤羽もその一人で、檀一雄、北村謙次郎、芦田伸介などと一杯飲みながら芸術論などを交わし、それが、画家、赤羽末吉の肥やしとなっていったようです。同僚の森繁久彌とは家族ぐるみの付き合いで、戦後森繁久彌のエッセイ集の挿絵と表紙絵を描いています。森繁さんのご子息によれば、「森繁は昔からハチャメチャな人。赤羽さんは昔からクソ真面目な人。だから二人はすごく気があったのではないか」ということです。

絵を再開すると画家仲間も増え、スケッチ旅行などを通して、大陸の自然や中国の文化、人々の暮らしなどに触れ、心惹かれていくようになりました。特に赤羽を魅了したものに中国影絵人形芝居があります。赤羽には研究者のような一面があり、演目・楽器・人形作家・劇団員の出身地・給料・後継者の有無などを調べ上げ、冊子にまとめました。さらに日本国内の大阪毎日新聞に、衰退する影絵人形芝居の保護を訴え、自ら連載記事を担当するという行動力に富んだ一面もありました。

絵本の世界へ~セロ弾きのゴーシュ

赤羽が絵本の世界に入るきっかけは、茂田井武の『セロひきのゴーシュ』(こどものとも第2号)です。この絵本を見て「こんな素晴らしい絵本を描く人がいて、これを出してくれる出版社がある。自分も絵本を描き、この出版社に自分を預けよう」と、当時の福音館書店編集長、松居直先生に手紙を書いて会いに行き、絵本の世界に入りました。松居先生は「赤羽先生はこの茂田井武の『セロひきのゴーシュ』を非常によく理解し語った」とおっしゃっていましたが、茂田井の『セロひきのゴーシュ』は、彼のお気に入りの布人形をモデルに、画面構成も人形劇風に描かれています。実は、赤羽も最晩年の1989年に『セロひきのゴーシュ』を茂田井とは随分違う描き方で描いています。茂田井は、物語に沿って、表紙から、具体的な生活用具を描き、人形劇の舞台を作り上げていく。ところが赤羽の表紙は、赤い実をつけた木をゴーシュの背景にして、その天地は霞ませ、他には何も描いていません。見返しは覗き穴のような穴が一つ中央にあるだけ。各場面も背景は極力減らし、動物に特化して描いています。ドアさえなく、突然、猫が部屋の中にいます。ネズミが来る場面、茂田井は動物をみんな登場させ、背景も特に人形劇風ですが、赤羽はネズミとゴーシュだけ。おそらく赤羽は、宮沢賢治の持つ物語の不思議さ、動物たちとゴーシュの微妙な交感、幻想性というようなものを茂田井よりもさらに強く表現したかったのではないか。見返しの丸い穴は「そこから覗くと不思議の世界が広がっているよ」という意味を持つものなのかもしれません。

郷土玩具

赤羽末吉は旧満州で、郷土玩具の収集研究にも夢中になり、『満州土俗人形』という本を共著で書いています。当時、郷土玩具について「大陸的な自由な想像力で作られたものばかりなので、ひとつひとつが個性的で甚だ面白い」と語り、後日、「昔話絵本を描く大きな要因の一つにもなっているようだ」とも言っています。郷土玩具も昔話も庶民の発想から生まれ、代々人から人へ伝えられたものです。風土や歴史や文化によって、郷土玩具も昔話も自在に形を変えていきますが、それでも失われることのない共通性を確かに持っています。赤羽は昔話絵本をたくさん描いていますが、昔話に惹かれた理由の一つは、一見単純に見える昔話が、自在な変容性と、普遍的な骨の太さ、力強さの両面を持っているということなのではないでしょうか。絵本を描く上で、旧満州の郷土玩具の形も参考にしていたようで、『ほしになったりゅうのきば』(旧版)のお姫様の姿は、まさに郷土玩具そのままのように思えます。

赤羽末吉は当時の新聞や雑誌に旧満州の風物や風景について沢山の記事を書くようになり、日本画家として、郷土研究家として名を馳せ、旧満州の文化事業の中心近くで働くようになりました。しかし、画家として一貫して子どもへの眼差しというものを持ち続けていたようです。赤羽は当時、すでに絵本を共著で数冊描いています。日本語と中国語の両国語併記で書かれた、絵雑誌『満州月暦』(共著)は、中国人と日本人の両国の子どもたちに、満州の美しさや行事の楽しさを知らせようとする意図をもって描かれています。そこには、作者たちの、民族の違いを超えて、満州を祖国として共に生きようとする強い思いが垣間見られるように思えます。

子どもに対する眼差し

杉村勇造(中国美術学者)が、満州国の当時の新聞に「赤羽末吉君の繪畫はその人柄が示す如く情愛の画である。この人の土地に對する愛と子供に對する情とはどの畫面にも充分表現されている」と書いています。杉村の言う“子どもに対する眼差し”をずっと持ち続けた父だからこそ、敗戦後躊躇なく、価値が低いとされていた絵本画家の道へ進もうと心を決めたのではないでしょうか。

大陸の地と文化をこよなく愛した父は、満州国の五つの民族が協力して素晴しい国を作ろうというスローガン「五族協和」を信じ、満州に骨を埋めるつもりで、活き活きと働き、努力していたわけです。しかし、多くの日本人と同様、父も敗戦後「日本は単なる侵略者であり、自分はあんなに嫌っていた関東軍の手先に過ぎなかったのではないか」と気づかされ、中国の人々に対する自責の念と、大人でありながら戦争を止められなかった責任を亡くなるまで背負い続けることになったのです。引き上げの疲れで、4か月で3人の子どもを亡くし、その責任はさらに重いものとなりました。

『あかりの花』という作品の取材で、戦後38年ぶりに中国に渡った折に、お世話になった中国の方々へ、父は「あの戦争の時代、大人だった私は中国に対して罪人です。だから観光旅行では決して中国に来ないと決めていました。でも中国の役に立てることならすぐに飛んでこようと思っていました。今回はそれが実現したのです。私は中国と日本の架け橋になりたい。二度と戦争を起こさせてはいけない。そのために世界中の子どもたちが絵本を通して、他国の文化を理解し合うこと。それが平和を築くことにつながると思います」と挨拶をしました。拍手が沸き起こり、通訳の方が「先生、中国人みんなすごく感動しています」と伝えてくれたそうです。“いつか中国の人に直接謝罪したい”と思っていたようで、帰国後「少し肩の荷が下りたよ」と話してくれました。赤羽末吉は、「子どもたちが他国の文化を理解し合うために、他の国々や日本の文化を正確に伝えよう、できるだけ現地取材を重ね、資料を読み込み考証した、単なる想像に頼らず、なるべく嘘のない絵本を描きたい」と思っていたわけです。そのようなわけで、時代が不特定の昔話でも、装束は資料の豊富な室町時代に統一することが多いということです。日本の敗戦と満州国の崩壊に伴って、全て無に帰すという結果に終わってしまった中国での暮らしでしたけれど、ともあれ日本画家・赤羽末吉を生み出し、赤羽末吉が絵本を描くための大きな二つの出会いを与えてくれました。

蒙古の草原と編集者・松居直との出会い

ひとつは1943年、敗戦の2年前に訪れた、広大な蒙古(現、内モンゴル自治区)の大地です。赤羽の画家グループは、満州国からチンギス・ハーン廟の壁画制作依頼を受け、取材のため、内蒙古への旅に出ました。その時の写真とスケッチが、後に代表作『スーホの白い馬』を生むことになります。父は敗戦後、日本への引き揚げの際、蒙古の写真や各地のスケッチ、郷土玩具の絵などを大量に持って帰ってきました。しかし、現地の地形や様子がわかるもの、特に絵や写真は禁止されていて、見つかればスパイとみなされ、家族とも殺されかねなかった。帰国後、画家になれる保証はなく、全く生活の役には立たないものを、なぜ父は命の危険を冒してまで持ち帰ってきたのか。その理由を、私たち夫婦がフランス在住時の父からの手紙に見つけたような気がします。父はテレビでフランスの様子を見たようで、手紙に「こういう風景をたくさん見てきなさい。本の勉強よりこういう見る勉強をしてきなさい。稼ぐような勉強はよしてのんびり土地の匂いを身につけてきなさい」と書いてくれました。この“稼ぐような勉強はよして”というところに父の生き方、絵に対する姿勢があるのではないか。中国から持ち出した写真や絵は“稼ぐためではない勉強”によって手に入れたものの数々で、まさに父の血や肉、自分の身体の一部のようなものだった。だからこそ、父が全力を注ぎたいと考えた絵本の仕事にとって大きな力となったのだと思います。

51歳でのデビュー作『かさじぞう』の後、松居先生に次作を問われ、「子どもたちに広大な蒙古の大地を見せたい」と答えて生まれたのが『スーホのしろいうま』(こどものとも 67号)です。これは月刊絵本の穴埋めに1ヶ月で描かなければなりませんでした。当時アメリカ大使館勤務の父の手帳には、猛暑の中での制作の苦労が記されています。しかし、『スーホのしろいうま』の色校正を見た日の手帳には、「心底がっかり」とあり、広大な大地が全く表現できていないと感じていたようです。ところが、物語の良さからか、存外評判がよく、再版の話が持ち上がり、父は松居先生に横長大型版での描き直しを提案しました。松居先生も「その案いただきましょう」と賛成し、横長大型版、オールカラー48ページという改訂版『スーホの白い馬』が誕生しました。当時、このような贅沢な絵本は画期的で、当初、営業は「この判型では書店に並べられないので売ってもらえない」と反対したといいます。しかし父は、「この物語は横長大型版でなきゃ出す意味がないんです」と言い、松居先生は「書店に並べるために本を出すのではありませんよ。子どもたちのために出すんです」と頑張られたそうです。父は食卓で、私たちに、松居先生のことを「あの人は優しい顔をして太っ腹なんだよ。あの時は本当にありがたかった。」とずっと感謝しておりました。

2016年に赤羽末吉のモンゴルの写真展が開催され、松居先生が車椅子で来場されました。松居先生は、絵本『スーホの白い馬』の展示ケースの前でピタリと止まられ、表紙をじっと見つめ続けておられました。私は、そのただならぬ様子に、「あの人は優しい顔をして…」と、父から聞いていた言葉通りの感謝の念をお伝えしました。すると、松居先生は車椅子から突然すっくと立ち上がられ、「それは違います!」とおっしゃる。その勢いに私はびっくりし、これは何か叱られるのだと身が縮む思いでした。すると、松居先生は続けて「それは違います。感謝しなければならないのは私の方です。私が赤羽先生と出会ってどれほど幸せな人生を送ることができたか、感謝しなければならないのは私の方です」とおっしゃったのです。その心からの言葉に、私は、画家赤羽末吉にとって、編集者松居直に出会ったことの幸せを心底感じずにはいられませんでした。

スーホの白い馬

『スーホの白い馬』の中には命がけで持ち帰った写真がたくさん描き込まれています。スーホの顔や靴、服装、表紙の奥のオボと呼ばれる祠のようなもの、雲の形、荷馬車も真っ赤なラマ僧もテントの模様も、王様の被っている帽子も写真のままに描いています。さらに赤羽は、そこに生きる人々の心情、暮らしぶりをもできる限り正確に、分かり易く描こうとしています。スーホが乗っている白馬には鞍がついてない。競馬の時は少しでも馬の負担を減らすために鞍をつけないそうですが、鞍が貧乏で買えないということもあるらしい。その証拠に王様がスーホの白馬を奪った後には、立派な鞍がつけられています。鞍なしでの乗馬は、馬との信頼関係がないと難しく、スーホと白馬の信頼関係を表現するためにも、赤羽は、スーホの乗る白馬に鞍を描かなかったのでしょう。とはいえ、すべてが事実とは限りません。「実際を知って、こだわらずにデフォルメすることは、大いにあってよいと思う。」と赤羽は言っています。例えば、馬の走り方ですが、馬は足を引きずるように走るそうで、いくらその通り描いても走っているように見えない。というわけで、競馬の場面は、日本古来から描かれてきた馬の走り方を採用したといいます。

樹下美人図と熱河

赤羽末吉は若い頃、自分の目標とする絵には、「深さが欲しい、高さが欲しい、強さが欲しい、そして人間的な優しさも欲しい。」と考えました。そして、「樹下美人図」には、それら全てが含まれていると気づいたといいます。赤羽は内蒙古に立ち、「この草原は樹下美人図だ」と思ったそうです。私が今年モンゴル国の大草原を旅し、一番驚いたことは、父の描いた『スーホの白い馬』の空気感がそのまま、広がっていたことです。そこは、母の胸に抱き留められているような感覚を覚える、まさに「樹下美人図」なのだと感じました。父の感じた深さと高さと強さと優しさで人々を包み込むモンゴル草原の大地と空が、子どもたちの心を伸びやかで豊かに育ててくれればと願って『スーホの白い馬』は描かれたに違いありません。

命がけで満州から持ち帰ったものの中で、内蒙古の写真に次いで多いのは、熱河(現・承徳)のスケッチです。赤羽は、熱河の瑠璃塔という丘の上の塔で握り飯をがつがつ食べながら、スケッチをしていたのですが、そのみじめったらしさにうんざりして、大の字になって昼寝したそうです。そのとき麓から雲のようにあがってきた豆腐屋の呼び声に中国の悠久を感じたといいます。エッセイの中で「こどものものでは、子どもの生活の周辺を書くことはおおいにあっていいことだが、その心まで矮小化することはない。短い話でも、小さな形の絵本でも、その底に流れるものは、大きな広がりのあるものであってほしい。たった四畳半の茶室に、その心の宇宙の広がりを持たせたのは、我々の祖先である。」と語り、「あの秘境(熱河)を日本の子どもに本当に見せたいなあと思うのである」と締めくくっています。その思いは、ダイナミックな構図や、お話の飛躍などとして、どの作品にも生きています。『へそとりごろべえ』は小ぶりな判型ですが、ごろべえが雲に乗って駆け回る風が吹き渡ってくるような躍動感があります。日本の伝統的なクジラ漁を描いた〈クジラむかしむかし〉で表現されているクジラの生命感あふれる巨大さ、そこに挑む人間の勇壮さにも、「子どもたちにあの秘境を見せたい」という想いが潜んでいるように思います。

絵本『あかりの花』は、中国に住むミャオ族の昔話です。赤羽は事前にダミーを作り、取材項目をメモして取材旅行に出掛けました。ミャオ族の村で取材を続ける中、石臼だけが見つからない。その時の様子を君島久子先生が「赤羽先生の必死なあの形相は忘れられない。あの時の先生は本当にお気の毒のようだった」とおっしゃっていました。もうだめだと思った時に、村人が「こんなものならあるけど」と出してくれた乳鉢のようなものを「これだ」と、汗を流しながらスケッチ。帰りのバスで、赤羽は、「石臼がわかってよかったよ。これで子どもたちに嘘をつかないですむ」とほっとした様子だったということです。

旧満州の満蒙開拓村で出会った美しいもんぺ姿は、赤羽に雪国への憧れを呼び起こし、さらに、引揚船から眺めた日本のたたなづく山々の緑豊かな美しさは、その憧れをさらに強いものにしました。帰国後、生活が落ち着くと、雪崩の危険と背中合わせの列車に乗り、市(いち)を追い、人々とふれあい…、赤羽は十年近くにわたり、一人豪雪地帯への旅を続けました。これも父の“稼がない勉強”ですね。墨で描かれた『かさじぞう』の雪は、ぽっと温かい光を含んでいたり、墨の滲みで朝方の冷気を感じさせたりします。『源平絵巻物語―牛若丸』の霏々と降る雪は、幼子を連れて難儀して逃げる常盤御膳の心持をよく表し、『つるにょうぼう』では、傷ついた鶴とよひょうとの出会い、つる女房がよひょうを訪ねる場面、鶴が去っていく場面、と場面によって、みごとに雪が描き分けられています。原画を見ると特に感じるのですが、最晩年の作品、『ひかりの素足』には、「雪の怖さを知らなければ雪は描けない」と言っていた赤羽末吉に相応しく、恐ろしいほど美しい雪が描かれています。

声の力

これは余談ですが、今年7月、モンゴル国に行ってみて私が感じたことは“声の力”についてです。遊牧民のゲルに泊めてもらい、夕飯もご馳走になったのですが、誰からともなく、歌が湧いてくるのです。モンゴルの人たちは無口ですがとても暖かい、そして歌が好きなのです。彼らの歌声を聞いた時、文化を背負った声の力、つまり、モンゴル人が歌うモンゴルの歌だからこそ、これほど心に響くのではないか。日本人が日本の昔話を語ってそれを聞く子ども。昔話を語る“声の力”というものを、このモンゴルの旅が教えてくれたような気がします。

赤羽末吉は「子どもは絵本の中で人生体験をやるんです」と言っています。子どもたちは悲しいことや辛いことも全て絵本の中で体験し、それを乗り越えていく力がある。絵本の中の体験によって、子どもたちは生きる力や考える力を身につけることができると赤羽は思っていました。だからこそ自分の持てる全てをかけて、絵本を描いたわけです。赤羽末吉は昔話絵本をたくさん描いていますが、民話や昔話を描く上で一番気を使ったことは、残酷な場面がグロテスクにならない様に、けれども、この世の中には残酷なこともあるのだ、恐ろしいものもいて恐ろしいことも起きるのだと、きちんと子どもたちに伝えるということだったのではないでしょうか。「鬼の赤羽」と言われるほど沢山鬼を描いている赤羽の描く鬼は、少しユーモラスであってもどこかに威厳や恐ろしさを宿しています。そして、物語の中で、鬼を殺すことは絶対にしません。子どもたちに、世に生き続ける恐ろしい鬼の行く末を想像してもらいたいと考えたからです。しかし山姥や妖怪は人間の化身だから殺してしまいます。とはいえ、物語によって、その死は美しく描かれています。

私は、創作絵本『おへそがえる・ごん』は、赤羽末吉の遺言だと思うのです。敵対する者同士「カエルとヘビ」「たぬきときつね」「へそとりごろべえと少年けん」が力を合わせて、権力や暴力と戦うわけです。まさに自身そのものであるような、軽やかさとユーモアの中に、赤羽末吉は、生きとし生けるもの、動物も人間も皆平等なのだ、そして、その平等の者同士が、食べ物を分け合い、助け合って生きることがどんなに楽しく、素晴らしいかを描いています。それは、戦争の時代を生きてきた赤羽末吉が子どもたちに一番伝えたかったメッセージなのではないでしょうか。なぜなら、それは戦争をしない世の中にとって一番必要なものだからです。しかし、赤羽末吉はこう言います。「ここで話したことは全て楽屋話である。読者はこれを読み取る必要はない。読者に楽屋が見える様では失敗である。なんだか知らないけれど、これは面白いとか、なんだかわからないけどこれはいいといわれることを願う」この言葉のとおり、どの作品の中でも、赤羽は、伝えたかったメッセージを声高に直接的に述べることは決してしていません。絵本作りで第一に考えた、子供を楽しませる、子どもの心を解き放つ為の工夫を随所に施し、ただただ、痛快で愉しく、夢中になって読んでしまうようなしたてになっているのです。絵本の中に秘められた赤羽末吉の思いは、絵本の楽しさと共に、子どもたちの心にしっかりと伝わっていくのだと思います。赤羽は、絵本を描くことを存分に楽しんでいました。自分も楽しんでいたからこそ、まっすぐに子どもたちにその楽しさが伝わるのだと思います。

宮沢賢治作品

赤羽末吉は、宮沢賢治の『風の又三郎』を描き終わらぬうちに他界しました。宮沢賢治作品第一作目、『水仙月の四日』について、赤羽は「この作品は、硬質な宝石をみるような、キラキラとするどく美しい詩情でかかれた異色作で、この透明とも思われる作品の香りが、絵になるものであろうか。これはあくまで文学の世界で絵になどたわけたことなのかもしれない―」と書いています。こういって、宮沢賢治の作品を絵本にすることの難しさを感じていた赤羽末吉がなぜ宮沢賢治を絵本に描きたかったのか。まず、宮沢賢治の作品に一貫して見られる平等観、生きとし生けるものみな平等であるというのは赤羽末吉が『おへそがえるごん』の中で描いたことともつながります。さらに宮沢作品には、動物や鳥の生態、星のこと、鉱物のことなど、ひとつも嘘がないこと。それは赤羽末吉が常に追求した、考証の確かさとつながっていきます。また、賢治の作品にも赤羽の作品にもユーモアという要素が備わっている。瀬田貞二によれば、「賢治は作品の中で、おさえきれない怒りにも奇妙なユーモアを込めることができ、そのユーモアは、読者が笑わせられながらギョッとさせられる複雑な働きをもたらしている。そして、賢治のユーモアが、子どもを子どもとして守り抜く賢い解毒剤の作用を果している」ということで、赤羽が昔話などの残酷な場面に、子どもの心を和らげるユーモアをさりげなく描きこんだことと重なります。宮澤作品は、たとえ日常の一コマを描いていてもそれが小さな世界にとどまらず、父の好きだった言葉に置き換えれば壮大なファンタジーの世界へと広がっていきます。その文体は、詩と呼ぶにもふさわしいもので、それは赤羽末吉の、絵本の絵は大衆的であっても画格の高いものでなければならないという志と重なります。賢治は、「ほんとうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、11月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がして仕方ないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないということをわたくしはそのとほり書いたまでです。…けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほったほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。」と言っています。子どものほんとうの食べ物、つまり、子どもだましではなく、子どもの心を豊かに育てることのできる文学でありたいと願う、賢治のそのような姿勢も赤羽末吉と重なっていきます。つまり、宮澤賢治の文学は、赤羽末吉が目指した絵本の世界とぴたりと重なるわけです。難しいと思いつつも、自分の理想を体現したような賢治作品を絵本にして子どもたちに届けたいと切に願ったのではないか。本腰を入れて宮沢賢治と向き合おうとしたときに命が絶たれた無念さはいかばかりだと思うのです。そのように、最後まで自分の理想と闘った赤羽末吉の絵本が、未来の、そのまた未来の子ども達の心に灯をともしつづけてくれることを願ってやみません。

 

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