REPORT-レポート

2/23 文学・歴史セミナー〈語られなかった石橋湛山〉江宮隆之氏

本年度より始まりました「文学・歴史セミナー」の第2弾が、2月23日(日)に開催されました。今回ご登壇いただいたのは、地元富士川町出身の作家で『政治的良心に従います 石橋湛山の生涯』(河出書房新社)の著者である江宮隆之氏です。ここ富士川町で育ち、第55代内閣総理大臣になった石橋湛山について、88年の生涯を追いながら、没後半世紀経つ今でも再来を期待される理由を語っていただきました。その一部をお届けします。

おいたちと小学校時代

石橋湛山が生まれたのは明治17(1884)年9月25日。山梨県ではなく東京の麻布でした。父親の杉田日布(湛誓)は日蓮宗の学校で教鞭を取っていました。そのお寺の信者に畳屋さんがあって娘のきんと日布は結婚、生まれたのが湛山です。ただ日布は妻帯できないという宗門の掟に背いたという理由で生まれた子の姓を母方の石橋としました。ですから湛山は生まれながらの石橋姓です。

その後日布が昌福寺の住職になるときに山梨へ連れて来られますが、日布は甲府のお寺にお願いして妻子を預かってもらい、単身赴任で昌福寺に行きました。そのうち憐れんだ檀家の進言で、湛山が4,5歳の時に昌福寺に招いています。日布はその時でさえ山門の中には入れず外に住まわせています。ちなみに湛山の幼名は省三といいます。反省の「省」に「三」。長男なのになぜ省三かというと、孔子の教え「人は1日に3回反省せよ」が由来になっています。

湛山は増穂尋常小学校に通いますが、まわりからは「省三やん」と呼ばれて最初本人はとても驚いたそうです。尋常小学校5年生のときに日布が静岡市の本覚寺に転任になると、若草町(現南アルプス市)の長遠寺に預けられます。日布は湛山を連れて行くと気性が似ていることからいずれ衝突すると思ったようです。それよりは自分と正反対の性格の長遠寺住職、望月日謙に託した方が良いと考えました。余談ですが後に日布は身延山久遠寺の81世法主になりますが、日謙も久遠寺の83世法主になります。幼少期の湛山はこのような環境で育ちます。

学生時代の出会いと教え

そしてわずか11歳の時、飛び級で山梨県立尋常中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)に進学します。ここで湛山は2年落第してしまいますが、それが思いがけない出会いにつながります。後々まで人生観に強い影響を受けた大島正健校長に薫陶を受けることになるからです。この時大島に会っていなければ湛山の心に火が灯ることはなかったかもしれません。大島からの教え「Be gentleman!」は大島が札幌農学校(現北海道大学)で初代教頭のクラーク博士から学んだことで、この「紳士たれ」「良心に従って生きろ」という教えは後々まで持ち続けることになります。

それから二浪して早稲田大学に進学しますが、入学した年は日露戦争が始まった年です。これは偶然ではなく、先輩から大学に進学するように勧められたからです。というのも学生でなければ徴兵される可能性があったため東大を諦めて早稲田大を受験しています。大学時代にも後々まで影響を受けた人との出会いがありました。たとえば、島村抱月からは美学や理論性を教わります。おそらく湛山が理論的にものを書けるようになったのは島村の影響があると思います。そして強く影響を受けたのがプラグマティズム哲学の先生だった田中王堂。プラグマティズム哲学というのは、学問は学ぶだけではなくて生活や社会のために生かして初めて学問として生きるという考えです。これは榊村(現南アルプス市・旧櫛形町)出身でのちに東京タワーを設計した内藤多仲も早稲田大の教授になってから同様のことを学生に説いています。すなわち実学主義、勉強したことを世の中の役に立てなければ勉強とはいえないということです。この考えも湛山のもうひとつの骨となっていきます。このように学生時代の湛山は多くの人から後の人生に影響を受けていますが、結局人というのは出会った人たちの教えや言葉、生き方をいかに自分の血肉にできるかどうかで人生が決まっていくのではないかと思います。

東洋経済新報社と「小日本主義」

大学を卒業して入社した東洋経済新報社には主幹で三浦鐵太郎(てつたろう)という人がいました。この人の主張する小日本主義というのは、日本の国土は北海道と本州、四国、九州だけで十分で、外に植民地を求める必要はないという考え方です。これは湛山の中で最も身に染みた思想になっていき、のちに「一切(大日本主義)を棄てる覚悟」という文章に繋がっていきます。植民地を棄てた小さな日本列島だけでも教育する人とモノづくりさえあれば世界に伍して戦えると戦争中も湛山は主張し続けました。

昭和17年くらいから日本の敗戦が見えてくると、有識者の間で敗戦後の日本の国作りを考えて湛山を中心に日本経済の研究をしようという動きがでてきます。この中には清沢洌や羽仁もと子がおり、官僚や大学の教授も含めて30人ほどの会になりました。当時の湛山は東洋経済新報社の社長で紙面では戦争反対を言い続けていました。すると軍部は東洋経済新報社を潰すために紙の供給を止めてしまいますが、通産省や新聞社の中には日本の良心を守ろうと密かに紙を提供してくれる人がいました。戦争に反対したら非国民と言わる時世に湛山はこれを貫いたのでした。

政界進出と公職追放

そして敗戦となりますが、その15日後、昭和20年8月25日に湛山は「これからの日本の前途は洋々たり」と東洋経済新報に書いています。小日本主義をやっと実現できる、今まで軍需工場だったところが学校になり、軍費が教育費になる、日本が負けたことは再生日本の曙で悲しみでなく喜びだ、という湛山の心境を表しています。ただ今までは言論人として色々主張してきたけれど実現するには新聞記者のままでは駄目で、政治家として根本から日本を再生させなければならないと考えます。ところが最初の選挙では25人中21位という結果で落選します。この時、首相になる予定だった自由党の鳩山一郎は公職追放を受けて吉田茂に代理を依頼しました。ただし首相を譲る条件として大蔵大臣には湛山を指名するように言っています。大臣に一民間人の湛山を据えようと考えていた鳩山の慧眼に驚きます。

第1次吉田内閣では約束通り湛山が大蔵大臣に指名されました。大蔵大臣になった湛山は何をしたのかというと、GHQに対して日本の出費負担を減らしてほしいと願い出ました。日本人の三分の一が飢えて困っているというのにあなたたちの金魚の瓶から自宅のプールの水まで負担している、日本国民のことを考えてくれと物申したわけです。GHQに対してここまで言えたのは湛山ひとりです。この原動力になっているのはまさしく中学時代の教え「Be gentleman!」でした。当時、東京の子どもの間で流行った歌が「湛山心臓、湛山心臓」というもので、GHQに対しても負けない心臓だと遊び歌になっていたと記録されています。ところが、これを腹に据えかねたGHQによって2年後に湛山は公職追放されてしまいます。これに対して湛山本人や羽仁もと子をはじめとする知識人は抗議しますが、受け入れられることなく公職追放は4年間に及びました。

選挙を支えた人々

実はこの直前、昭和22年4月25日に湛山2度目の選挙がありました。湛山はゆかりのある山梨県から出馬したいと考えましたが、すでに立候補者は決まっていて出られません。そんな湛山に手を差し伸べたのが、静岡2区の佐藤虎次郎という人で、湛山を首相になる器だと見込んで地盤を譲ってくれたのでした。ただ湛山にはお金がありません。そんな状況を救ってくれたのは、豊村沢登(現南アルプス市)出身の名取栄一という人でした。名取は14歳で沼津市に進出、繭取引で成功して沼津商会を立ち上げ沼津市長も務めた人です。この人が湛山の人柄に惚れ込んで、選挙に必要な「地盤・看板・鞄」のうち、「鞄(資金)」を援助して湛山をトップ当選に導きます。このとき社会党が143議席、自由党は131議席で片山哲内閣が誕生します。そんな矢先に公職追放になりますが、この間湛山は経済の勉強に独学で励むことになります。のちに名取は湛山が首相になったときに沼津でパレードを開催しますが、オープンカーに乗った湛山は名取を隣に乗せて凱旋しています。これは名取に対する栄誉という名のご褒美です。見返りを求めない名取に対する同郷の誼のささやかなお礼ともいえるでしょう。この話を知って、私は西郡文化圏というのは良いものだとつくづく感じました。拙著『政治的良心に従います』(河出書房新社)を書いていた頃にこのエピソードを知っていたら間違いなく「西郡根性」という項目を設けて書いていたと思います。

この話でわかるように湛山は故郷の人たちに支えられて首相になり、本人もそのことを自覚していました。湛山の選挙は独特なもので、よくあるような「橋を架けます」「道を作ります」という利益誘導型ではなく、日蓮聖人のように辻説法を行っていました。何を説法するかといえば、ケインズ経済の話から金本位制の話まで滔々と語るのです。一般の有権者には何もわかりません。湛山が一通り難しい話を終えると、佐藤が一般層にもわかるように政治経済の話をして「お任せください」と言います。この二人三脚がトップ当選に繋がっていきました。この話からも湛山の選挙は色々な人に支えられたものだということがわかると思います。のちに厚生大臣になる渡部恒三は学生時代にこの選挙に同行していて、本当に面白い選挙だったと語っています。

“紙七重”の総裁選

大蔵官僚から後に東京銀行頭取になる柏木雄介は、湛山が大蔵大臣の財政演説前夜に内容を書き直したという話を語っています。通例なら予算・税制・金融・財政に関して省内各局に寄せられる注文をもとに各部署が書くものを、湛山は事務当局の作文にせずに自分でまとめると言って原案を却下しました。そして、一夜で400字詰め原稿用紙38枚に書いて、進駐軍の検閲に説明をしてから国会で読み上げています。柏木は事務当局総意の原文を採用せずに一夜で原稿を自ら書き下ろした大臣は湛山ひとりだったと書いています。また、これはにわか勉強ではできないことで湛山自身が大蔵省の財政金融政策をはっきり掴んでいる証拠だったとも書いています。

また、元通産省官房長の岩武照彦によれば、湛山が通産大臣だったときに通常国会冒頭の演説で通例なら当局が作成用意したものを読み上げるものを、それを見た湛山は自分で書き直して翌日岩武らに示したといいます。それは国政全般にわたる堂々たる論文でしたが、事務次官の平井富三郎から総理大臣の施政演説のようだと言われると、平井に書かせた上でそれを見ながら書き直して演説に臨んだといいます。

昭和30年、湛山や鳩山一郎の取り計らいで自由党と日本民主党が合同、自由民主党が結成されました。初代総裁に選ばれた鳩山はソ連との国交回復の道筋をつけて1年後に引退。昭和31年12月に次の自民党総裁を選ぶ総裁選が行われ、湛山、石井光次郎、岸信介が立候補しました。ただこれは湛山が積極的に総理をめざしたわけではなくて、石田博英や三木武夫たちに担がれて神輿として立候補したものでした。1回目の投票では岸が1位で湛山は2位でしたが、岸が過半数に及ばなかったことから決選投票になりました。この時湛山陣営と石井陣営は事前の取り決めとして、決選投票になったら2・3位連合を作って協力しようと話していました。結果、湛山は7票差で1位となって自民党総裁、そして内閣総理大臣になりました。

拙著『政治的良心に従います』(河出書房新社)では、この総裁選について石田博英の週刊朝日の記事をもとに書きましたが、50年近く経ってから石橋湛山記念財団機関紙『自由思想』の第100号にこの裏話が掲載されました。これは石橋内閣で農林大臣を務めた井出一太郎が『農協長野』に回想して書いたものを再掲したものです。これによれば、当時井出は選挙管理委員として総裁選の票を数えていたが、投票数全体がどうしても7票足りなかった。再集計を命じる瞬間、10枚ひとくくりの束にひとつだけ厚いものがあって開けてみると7票多くありすべて湛山に投票されたものだった。もしこの7票が見つかっていなければ岸が勝ったことになっていました。拙著に書いた内容も大筋は同じですが、この緊迫したドラマを入れ込めたらもっと面白くなったでしょうから、今からでも書き直したいと思っているくらいです。ただこの『自由思想』第100号の最後に、石田が週刊朝日に書いた脚色された総裁選を江宮隆之著『政治的良心に従います』等が広めてしまった、と書かれてしまいました。私としては、このような場所を借りて「間違っていました」と言うしかありません。ちなみに4年前に出版された保阪正康著『石橋湛山の65日』の総裁選の箇所を見ましたが、私と同じように間違った内容が書かれていました。

政治的良心に従って総理退任

その後湛山は総理就任から2ヶ月で発病したため辞任しています。原因は一般に肺炎と言われていますが、病院で診てもらった際には言葉が出ない等の脳梗塞症状があったので、軽い脳梗塞を併発していたと思われます。手がしびれて言葉も出てこないため、湛山は首相を辞任することを決断します。この時病室には浅沼稲次郎や三木武夫、池田勇人が訪れて慰留していますが湛山は首を縦に振りませんでした。17歳の時に大島校長から教わった教え、「Be gentleman!」は72歳になっても生き続けていました。50年近く持ち続けてきた信条に逆らうことになるからいくらまわりから言われても良心を覆すわけにはいかない。政治的良心に従う。この潔さを讃える人は多くいますが、それ以上に戦後の日本の歴史、政治が大きく変わる転換点になったと言えるでしょう。

医師の日野原重明は倒れてから亡くなるまで16年間、湛山を診続けた人で著書のなかで湛山のことを次のように書いています。多くの政治家は総理大臣になることがゴールだが、湛山にとって総裁は目的のための手段である、と。実際、湛山は総理退任後、軽い後遺症を抱えながらも中国に渡って日中友好や日ソ問題の解決に尽力しています。これらを非政府レベルでできたのが湛山の強さだとも日野原は語っています。

岸信介への手紙

ここで湛山の後に首相を務めた岸信介についてお話します。岸は1960年の新安保条約に調印していますが、このときに湛山は岸に手紙を送っています。この下書きが2015年に東洋経済新報の地下倉庫から見つかりました。手紙は1960年4月22日に湛山の秘書から椎名官房長官に渡されていて、後に岸に届いたと思われます。内容を一部抜粋すると次の通りです。

“去る4月5日の毎日新聞には、再び新安保についてと題して同社の世論調査が出ているが、それによるとこの条約を承認するがよしとする者は僅かに15.8%にすぎない。これに対して承認しない方がよいが27.9パーセント、承認をやむを得ないとするもの18.8%、わからないが21.4%となっている。大体私が多くの人に尋ねたところと異ならない。この如き国民の多数が少なくとも半信半疑の状にある間に、国運の将来を決するこの重大な条約を政府は外国と結ぶことを許されるであろうか、私はあえて私自身の意見をここに述べない。ただ以上一点だけについて貴下の反省を望みたいのである。殊に私はこの際、思い起さざるをえないことがある。去る昭和31年の末、私が内閣を組織した時のことである。その際ある一人の人は私の提出せる閣員名簿を見て、きわめて深刻な表情をして私にこう尋ねられた。自分はこの名簿に対して只一つ尋ねたいことがある。それはどうして岸を外務大臣にしたかと言うことである。彼は先般の戦争に於いて責任がある。その重大さは東條以上であると自分は思うと。私はこの言を聞いて、そのきびしさに驚き且つ恐縮した。それは何を意味するかは知らず若し旧憲法時代に於いて、かかることが起こったとすれば、私は直ちに責を引かねばならなかったであろう。私としてはその際、これに対して百万辞をつくして了解を求める他はなかった。かの一人の人もその上更に深く追求することはせず、そういうわけなら宜しいがとにかく彼は東條以上の戦争責任者であると繰り返して述べられた。私はかくてその場は切りぬけたといえ、深く肝に銘じた次第であった。”

この「ある人」とは誰でしょうか。はっきり申し上げると、昭和天皇です。新憲法下で天皇は政治的なことを発言できないので、名を明かしてしまえば憲法違反になってしまいます。だから湛山は「ある人」という言い方しかできません。湛山は、「昭和天皇が岸を東条以上に太平洋戦争の戦犯と考えていて外務大臣就任に難色を示した。そして今また天皇の意に反することをやろうとしている」と伝えたかったわけです。

もしも湛山が総理を続けていたら

アメリカ一辺倒の岸に対して、湛山が政治家として首相として成し遂げたかった一番は日中国交回復でした。湛山は総理退任後に2回訪中して周恩来と会談し、石橋・周共同声明を調印しています。ただ、湛山が目指したものは中国一辺倒ではなく、あくまで一番のパートナーはアメリカだけれど、言うべきことは言うという関係でした。この時期はソ連のフルシチョフとアメリカのハイゼンアワーの関係が良かったので、ソ連とも関係改善の可能性がありました。そうすると、東アジアの平和から世界平和へ繋げていくという湛山構想の日米中ソ平和同盟を実現できたかもしれません。中国との友好関係が結ばれていれば、隷属としてアメリカの防波堤になるのではなく、深いパートナーシップで結ばれつつ、米中・米ソの関係改善に武器を持たない日本が仲介者として大きな役割を果たせたでしょう。これこそ湛山の夢であり、病気療養中でも訪中・訪ソを繰り返した理由でもありました。しかし、実際には岸政権もその後の自民党政権も中国を朝鮮半島をアジアを切り捨ててアメリカ一辺倒になっていきました。その結果、先日のトランプ大統領と石破首相の会談に見るような一方的な関係にならざるを得なくなってしまいました。多くの有識者が未だに「湛山が総理を続けていたら…」と言う理由はそこにあります。亡くなってから52年も経つ湛山に私たちはまだ期待をしているのです。湛山と同じような考えを持った政治家が現れてくれないかという儚い期待を抱いているのです。日本人としてこの国で生活する私たちが、子どもや孫たちの将来を考えるとき、過去の誰かに知恵を借りたいとき、この石橋湛山という人物を思い浮かべてください。

 

アンケート用紙より

〈質問〉
湛山を取り巻く人物たちの中にある松尾尊兊(まつお たかよし)は湛山とどのような関係であったのでしょうか。尊兊は大正時代の政治の権威ですが関係を知りたいと思いました。

〈回答〉
京都大学名誉教授・松尾尊兊(1929年生まれ。京都大学文学部卒。日本近・現代、特に大正デモクラシー専攻。京都大学教授などを経て名誉教授)は、立正大学で「石橋湛山を偲ぶ会」で講演した。その講演内容が「追悼の記」である。松尾氏には、『石橋湛山評論集』『近代日本と石橋湛山』の著書がある。

「追悼の記」で松尾氏は湛山の事績を大きく評価して、「湛山こそ、国民挙げての葬儀・国葬になるべき首相であった」としている。具体的に松尾氏はその「追悼の記」で、次のように語り、結んでいる。

 「1968年10月5日「東洋経済新報」に発表された「日本防衛論」(全集14巻)で湛山は「日本が軍隊をもって(他国からの)侵略を防ぐのであれば、世界最強の軍隊を持たねばならぬ。これは日本の国力から見て不可能である。防衛にとって必要なのは、軍隊よりも国民の分裂を避けることである。アメリカでさえ、小国ながら国民が一致して抵抗している北ベトナムを持て余しているではないか(後にはアメリカが負ける)。だから、正しい政治をやることにより国民が一致して国を愛する方向に向かうように努めることだ第一で、わが国の独立と安全を守るために軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいたら、国防を全うできないばかりでなく、国を滅ぼす」と書いている。これは非侵略・非武装の思想に生きてきた湛山の「一貫性(終始一貫)」を示す遺言でもあろう。

松尾は、以上の事実を挙げて、最後に「湛山先生が日本の平和と民主主義の歴史の中で、いかに重要な役割を果たされたかということが分かるだろう。先生が国民葬を以て送られるべきだと申した理由はここにある。とはいえ、先生は国民葬を必ずしも喜んでお受けになるような方ではなかったこともまた確かである」「我々にとって、湛山先生の国民葬とは何か。それは先生の遺志を体して、日本国憲法の精神を維持し、高揚させていくことであろう。これが先生への最上の供養だと思う」と記している。

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