REPORT-レポート

8/17 ふじかわ塾 開校 記念対談(江宮隆之氏×矢崎仁司氏)

8月17日(日)小説の書き方・脚本の書き方を一から学べる「ふじかわ塾」の開校を記念して、塾長お二人による記念対談が行われました。お二人の小説家、映画監督に至るまでのお話や、この塾についてのお考えを聞くことができた貴重な対談でした。その一部をご紹介します。


江宮塾長(以下:江宮)
今日は雑談みたいな対談になるかもしれませんが、よろしくお願いいたします。僕達の出会いは、僕が『骨壺の底にゆられて 歌人山崎方代の生涯』を出版した2000年になります。
当時僕は、山梨日日新聞社勤務でした。当時後輩だった監督の甥御さんが、「私の叔父が映画監督やっていて、この小説を映画にしたいそうなので一度会ってくれませんか」と言ってきました。そして、初対面の時に監督が、「山梨県の作家の原作で、山梨県人の僕が監督や脚本を、俳優さんも全て山梨県人でやるような映画を作りたい」と言われて「非常に面白いですね」というのから交流が始まりました。実現には至っていませんが、ただその発想を聞いて、素晴らしい感覚持ち主だなと感じたのが最初の印象でした。

矢崎塾長(以下:矢崎)
僕はちょうど2000年に山梨に戻ってきました。東京で映画を制作していましたが、ちょうど子どもが生まれる時期でした。東京は、人や動物などの死を隠す街です。子どもを育てるのなら死が隣にあるような場所で育てたいと考えまして、山梨に戻って暮らすようになりました。その時に江宮先生の『骨壷の底にゆれられて』という素晴らしい小説に出会い、これを映画にしたいと思ってよく見たら、山梨の方だと知りまして、作者に会いたいと思って甥に相談したことで機会を得たのが最初でした。
なかなか難しくて、結局映画化に至っておらず本当に申し訳ないのですが。

江宮:
その時に隣町同士だったと知りました。そして、巨摩高校の先輩後輩ということなどの縁がありまして、お付き合いが始まりました。
最初にお伺いしたいのですが、映画監督になりたいと思った、もしくはなるきっかけも含めて、どういうところから始まったのでしょうか。

矢崎:
僕はいろんなことが長続きするタイプではありませんでした。高校3年生の頃、友達と甲府に、映画「卒業」(主演:ダスティン・ホフマン)を観に行きました。その時に「映画ってすごくおもしろくて、いろんなことができる」と、映画の可能性に圧倒され、映画を学ぶ学校を探して、日本大学芸術学部映画学科に入学しました。ですから、きっかけといえば、映画「卒業」です。
僕の父が中学校の校長でして、芸術学部映画学科に行くのには、なかなかハードルが高かったです。家業ではないのですが、教師の子は教師になるような線路が敷かれている感じがあり、親に「日大の映画学科でも教職は取れる」など、ちょっと騙しもしました。映画学科にはいろんなコースがありますが、脚本を書ける監督の方がいいなと思い、〈脚本コース〉に進学しました。

江宮:
やはり、当時でも映画は、教師のようなきちっとした職業ではないと捉えられていたのですね。

矢崎:
そうですね。そもそも、映画館に入ること自体が、どこか後ろめたく感じていました。映画が面白ければ面白いほど、後ろを振り返り、学校の先生とか親が来てないかなとか、結構、後ろめたい何かを感じるような暗闇だったような気がします。

江宮:
僕が小中学生の頃は、映画を観に行くのは禁止されていました。青柳町に南嶺という映画館がありまして、ここは結構新作を上映しました。仕方なく隣町の銀嶺映画館にそっと見に行きました。監督と同じように、先生がいないか、前の方で頭を低くして映画を観た覚えがあります。どうして学校は、映画を観に行っては駄目だったのでしょうかね。

矢崎:
あれはどうしてですかね。何か止められないものが、映画にはあったのだと思います。
学校で先生が引率してみんなで観に行くようなこともありましたけど、基本的に安全な映画だったような気がしますよね。

江宮:
確かに。小学校の頃には、授業の一環みたいな形で年に2回ぐらいは先生が引率して南嶺に連れて行ってくれましたね。監督は、高校のときにもう監督を志したってことですね。

矢崎:
「卒業」を見て、勢いで監督になれると思い込んでいました。映画学科には、助監督募集の張り紙がありますが、大手の映画会社の助監督は殆ど東大卒なので、便宜上貼ってある。もうそういう夢みたいなものは大学入ってすぐ絶たれました。ですから、映画は自分たちで作るしかないと。どこかの映画会社で修行するような道は閉ざされていたので、自分たちで見たい映画、いわゆるインディーズの映画を作るっていう方向に行きました。そのおかげで、自称映画監督から最近は若干多少映画監督かなというぐらいになってきたかなという感じですね。
江宮先生はやはり小説などがお好きだったと思いますが、小説家になろうと決める大きなきっかけや、大きな出会いの本などがありましたか。

江宮:
僕は4歳の頃から映画を見に行くぐらい映画が好きでした。やはり、本を読むことも幼稚園の頃から好きでしたね。
地元の峡南幼稚園は僕の祖父が創設者でしたから、3歳から幼稚園に通っていました。ですから、最初に出会った本は、聖書ですが、それはとても読めません。当時、カバヤ食品のキャラメルの箱には応募券が入っていて、10枚集めると、カバヤ児童文庫という世界名作全集の子ども向けダイジェスト版を1冊送ってくれました。母から小言を言われながらも、応募券欲しさにキャラメルを買っていました。それから読む楽しさを覚えました。当時、学校の図書室は整備されていませんでしたが、それでも図書室に行っては本を読んでいました。中学で吉川英治の『宮本武蔵』に出会い、多分そこから歴史小説、時代小説が好きになったのだと思います。そして一番多感な時に司馬遼太郎の作品に出会い、大ファンになりまして、彼の作品は全部読んでいます。同じように若くして出てきた五木寛之も、これまた面白くて、ほとんど読みました。これが大体中学校から高校にかけての読書遍歴ですね。少し大人になったところで、立原正秋の小説が好きになり、全部読みました。僕は一人の作家を好きになると全部読んでしまうところがあります。今でも一度に5.6冊を読みながら読み流していく読み方をしていまして、車中など自分の目につく場所全てに本は置いてあります。
中央大の法学部は誰もが、法律の専門家なるために勉強ばかり。やりたいことがたくさんある自分には無理だと、法律家になるための勉強は諦めました。大学紛争もありましたし、いろいろありました。山梨日日新聞社に入って新聞記者になったことが今の僕に繋がっています。記事を書くために、物事を調べることと、人と話をすること。それが新聞記者になって鍛えられたことです。世の中は同じものを見ても、上から見るのと下から見るのと、それから右から見るのと左から見るのってみんな違ってくる。例えば交通事故一つにしても、警察が発表する交通事故と、現場を見た人の交通事故は全く違うことに気がつきました。新聞記事はどうしても、どこかに依拠して、第三者的に書かなければいけない。そのうちに、自分の考えを書きたいという気持ちが芽生え、それには小説書くのがいいのだろうと。読む側から書く側への興味が30代後半で移っていきました。
そういう意味では、監督はもう大学入った時には、監督としての道、脚本の道を進みましたが、僕の場合はそれに至るまで準備期間がかなり長かったっていうことだと思います。

矢崎:
僕はもうギリギリのところだったので、自分たちで撮るっていう楽しみがあったのではないでしょうか。
いや、やはり、亡くなった父のおかげです。もう大学も「来るな」といわれるほど単位も取れていなかったですが、映画は撮っていました。親戚やいろんな人からの心配の様子に「学校でこういった映画を撮っているから」と、父一人が矢面に立ってくれました。大学を辞めるように大学の事務局から電話があっても、父が「映画を勉強しに行って映画を撮っているようだから、いいのでは」という対応でした。いよいよ大学を辞めなければと報告に行くと、「せっかく映画の学校に行ったから一本撮れ。金は出してやる」「それを卒業証書にすればいい」というようなことを言ってくれました。父からそう言ってもらって作った映画が、海外で評価され、監督としてやっていけるようになるきっかけになりました。そういう意味では、父に本当に助けてもらいましたね。人生とは、そういうふうな曲がり方もあるのだなと。

江宮:
素晴らしいお父さんですね、すごくいい話だなと思います。いつか監督の自伝に書くときには絶対お父さんが必要ですね。

矢崎:
今は妻ですけれども、周りに一人理解者がいてくれれば、何とか進んでいけるってなるので。

江宮:
それは言えますよね。僕は新聞社にいる1986年にふと思い立って、文藝春秋のオール読物新人賞に応募しました。小説の舞台の半分は韓国でして、画家のことを書いた『幻画行』という題名です。そのときは落選しましたが、「最初に書いた小説が、新人賞の最終候補に7作に残ったのだからもっと書いた方がいいよ」と社の編集長に言われました。
もう一度そこに応募しようと思いましたが、宮部みゆきなどが最終候補に残りながら落選するほどの賞なのかと思い、違う方向でやろうと考えました。当時、新人物往来社の「歴史読本」が歴史文学賞を募集中で、そこに全く別の歴史小説『清経記』を応募し、歴史文学賞を受賞しました。その時は40歳近かったです。そこから小説を書き始め、勤めながら、何冊かの小説は書いていました。
最初うちは、社内で非常に好意的に受け止めてもらいました。当時の小林社長は、社長会で僕のことを紹介するほどでした。しかし、中にはそうでなく、足を引っ張る人もいました。理解者である先輩や上司が退職していくと尚の事、バッシングが多くなり、ここにいたら、精神的に駄目になると思い、早期退職をし、執筆活動をするようになりました。

矢崎:
当時は、昼は新聞記者として働いていらっしゃるわけじゃないですか。当時の新聞記者も定時終業できないと思いますけれども、そういう中で家に帰ってきてから、小説を書くっていう切り替えみたいなものはどうされていましたか。多分ここにいる皆さん小説家になろうと志している方たちも、きっと働きながらだと思います。その気分をどう切り替えたらいいでしょうか。

江宮:
僕もその頃はデスクでしたから社内で書くことは少なかったです。論説委員長でもあったので、論説は書いていましたが、それ以外はやはり家で書くしかなかったですね。あとは図書館を利用して書くとか。今とは違い、手書きで執筆していました。歴史小説とか時代小説っていうのは漢字ばかりです。画数の多い文字は、特に時間かかかる。漢字を書く時もいちいち辞書引く。けれども、それが自分の頭の中に入ってくるから、一つ一つ身につきます。自宅で書く時は、時間を決めていました。
大体9時から12時までの3時間くらいを書く時間に充てていました。

矢崎:
執筆は、個室みたいになっている書斎みたいな場所ですか。

江宮:
自室ですね。人がいる場所では絶対できません。歴史文学賞に応募した頃は、東京支社で編集部長でしたから、会社が用意してくれた部屋がありました。夜になると一人だから暇で、何か書こうかって思って書いたのが『清経記』です。
書く環境っていうのは静かな環境で書かなきゃ駄目ですね僕の場合はね。監督の場合はどうですか。

矢崎:
僕は、音楽を流したり映画を流したりしながら書きます。映画に失礼ですが、音楽のように流しっぱなしにしている。もちろん初めて見る映画にそんなことはしませんが、気に入った映画を、「今日はこの映画の気分」みたいに、映画を流しっぱなしにしながら書きます。

江宮:
その辺って全く違いますね。でも作家さんの中にはね、テレビを流しながら書くとか、ジャズ流しながら書くって人もいるみたいですけどね。僕の場合は静かな中で書いた方がいいというのは、小説書いている時にふっと主人公が上から降りてきてくれるときがありましてね。自分の中で思いがけないセリフが出てくるのは、「絶対にこれはあの人が今降りてきてくれた」と思います。
一番感じたのは、『一葉の雲』の時です。樋口一葉に妹の邦子が「あなた目も悪いのに苦労しながら、こんなに小説を書いて、そしてお金にもならない。どうしてなの」と問いかける場面。そうすると頭の中で樋口一葉が「男社会すぎるのよ」と答えてくれるのです。「江戸時代よりも今の明治時代の方がもっと男の社会で、もっと男が威張っていて、女を虐げている時代だから、私はそれに対して筆でもって男世界に対抗したいから書くのよ」と。だからこういうのを書くよって僕は考えていないのですよ。この樋口一葉のセリフがポンと出てきた瞬間、今、樋口一葉が来たと思うのです。
そうすると、静かな場所だからこそ降りてきてくれるなと。ふっと周囲の人が何か答えてくれるような部分がありまして。ですから、小説を書くということは、新聞記事を書くのとは全く別で、自由に書けるけれども、その分、自分が思っていないことが頭の中で浮ぶのは、本当に主人公が教えてくれたなと思うことがあります。ですから、僕の場合は一人で静かなところで執筆している方がいいなと思います。

矢崎:
やっぱりそれは相当入り込んでいるということでしょうね。

江宮:
きっとそうでしょうね。僕は主人公を好きにならなきゃ書けない。嫌いな人は書かないし、絶対書けない。歴史小説書いてくれって頼まれた中で加藤清正だけ断りました。嫌いな人を書いたって絶対によく書けないと思います。やはり、加藤清正の生き方が人として間違っていると思っているので。
ものすごく人気がありますが、僕は加藤清正よりも小西行長の方がよっぽど好きだから、小西行長を書いたわけです。小説を書いていると、思わぬところで思わぬ人のことがよくわかるのは、逆に楽しくて。資料を調べているときの楽しさがありますよね。多分それは映画にもあるのではないでしょうか。

矢崎:
僕は江宮さんと同じように、僕の映画の登場人物は僕が好きな人だけです。その人を「この人、こんなにいいんだよ」と、みんなの前に引っ張り出す。ただ、良いということだけではなく、「この人はこんな嘘をつく。こんなふうに人を裏切る。だけど僕はこの人のことが好きです」というのが僕の映画です。だから基本的に僕の映画も、登場人物は、僕は全部好きな人で埋めています。

江宮:
実を言うと、小説『白磁の人』の映画化の関係者が、最初に山田洋次監督のところへ本を持って行きました。山田監督は、「今僕は2つほど撮影中だから、すぐには無理だけども、すごく魅力的な素材だから、これからの映画の候補の一つにしたいと思う。ただ、この小説ではあまりにも悪役が弱すぎる。映画は悪役が強いほど面白くなる」と話してくれましたね。「この作品を映画にしたいなら、浅川巧に匹敵するくらいの悪役を出さなきゃ駄目ですね」という言い方をされました。映画ってそういうものだと思いましたが、そういう部分ってありますか。

矢崎:
そうですね、映画を作る上での多分資金集めの問題があります。プロデューサーが各方面からお金を集める時に、いい話は割と賛同されやすいです。特に強いテーマの映画、戦争批判や、震災に関するものは、割と資金は集まりやすく、映画は作りやすいです。けども、いわゆる悪役を主人公にするという映画にはなかなか作りづらい部分があります。

江宮:
もう一つ、監督にお尋ねしたかったのは、原作と映画という問題がありますよね。例えば「砂の器」ですが、原作が松本清張です。僕は映画を見てから原作を読みましたが、つまらないと感じました。映画の方が遥かにすごかったと思っています。映画は衝撃的で何度も観ましたが、その度に感動しますが、原作はもう読みたいと思いません。
そういう映画もあれば、逆に原作よりは映画の方が駄目だったというのもあります。
映画「道-白磁の人-」は、高橋伴明監督による映画化です。僕は最初から「映画と原作は違うからどんどん自由に作ってください。脚本も自由にお書きください」と伝えて全部お任せし、高橋監督らしい作り方をしてくれました。観た人の中には、「良かったね」や「やっぱり原作の方がいいね」など、いろいろな感想を持っていました。「それは映画と原作の小説とは違うからね」ということで、僕はそれ以上のことはもちろん言いませんし、映画になったことはとっても嬉しいことだと思っています。
そんなふうに原作のものを映画化する時に、その辺のその塩梅はどのようにしていますか。

矢崎:
そうですね。僕は今まで江國香織さんとか小池真理子さんや、辻村深月さんとか、いくつか原作のある映画を作っていますけど、作品の中には必ず原作者の自画像があると思っています。だから、自画像を探す作業から始めます。その理由は、原作者が一番の観客だから。原作者を喜ばせるために映画を作る。その一番の観客に原作者を選んでいるので、今までの原作者に嫌われたことがありません。そのために原作者を研究して、原作者が好きなものをできるだけ映画の中に散りばめます。
「原作のいいところだけ取って、映画にします」というようなやり方はどうしても嫌なのです。ですから、まず原作者に最初に観て欲しいという気持ちで作っています。江國さんに、「なんでそんなに私のことを知っているわけ?」と言われすしたし、辻村さんなんかは「私の全ての小説、矢崎さんに撮ってほしい」と言って頂き、嬉しかったです。

江宮:
あともう一つ、小説でも短編と長編ってありますよね。小説の場合は、短編と長編では文体が違ってくると言われていますし、実際そうです。長編で書くものを短編に詰めた場合には、無駄なところを省いて書いていかなければいけない部分がたくさんありますね。
作家のスティーブン・キングが、その違いについて「長編というのは、長く余韻をもってする情事のようなもので、短編とは暗闇の中のキスだ」と書いています。暗闇の中のキスはとは、刹那的な光で、その光が短編なのだと言っています。小説家の中には短編を得意とする人、長編しか書かない人もいますが、今のようなスティーブン・キングの言葉は、確かにわかるような気がします。
映画の場合もやはり短編と長編がありますが、どんなふうに違いますか。

矢崎:
何て言うでしょうか、監督としての立場で言うと短編は何かチャンスだと思っています。長編となると、やはりどこかで矢崎仁司監督作品というものを背負わなければいけなくなるのですが、短編って監督の名前を背負わないでできる自由さといいますかね、すごく楽しい作業ですね。映画の場合は、僕は本当に楽しめるものが短編ですね。本当に僕じゃないものを見せてやろうみたいな。

江宮:
短編でのテストケースもあるということですか。

矢崎:
テストケースというよりは、短編自体が今は配信などで映画の長さが結構自由になっているので、可能性の幅が広いと感じられるということです。少し前は、映画館は短編作品には見向きもしないので、発表の場がありませんでした。ですから小屋を見つけて上映してもらったり、いくつかの短編が合同で一つの会場に声をかけて、調整したりして上映をしていました。観に来る人たちが、2時間1500円ぐらいの感覚なので、30分の映画なら3本まとめて1本の映画にしてみてもらうみたいな、お客さんの納得感を得られるようにしました。
今回、脚本コースでは皆さんに短編を書いてもらって、そこで楽しんでもらえたらいいなとは思います。

江宮:
小説コースも同じです。短編から始めるということにはしています。
ふじかわ塾ですので、映画と小説っていう関わりで、僕が皆さんにもお伝えしたいと思ったのは、今は山梨県出身の、辻村深月さんや、林真理子さん、保坂和志さんにしても、皆さん東京などに地盤を持って東京などで活躍しながらやっている方が多いですよね。
富士川町、旧増穂町には、熊王徳平という小説家がいました。熊王さんが書いた『甲州商人』が、映画「狐と狸」になりました。行商人と東北の素朴な人たちとの騙し合いを描いた面白い映画でした。熊王さんという人は東京へ一度も出たことがなく、この地元にいながら書いた小説が映画化されたのです。そういった意味では、ものすごく面白い人だと思っていました。
もう一人、旧増穂町には小学校の校長で塩沢清という人がいました。塩沢先生は、子どもたちに“仲間”や“生きること”とか“目的を持つこと”などを教える児童文学を書いていました。その作品の一つに映画化された『ガキ大将行進曲』があります。塩沢先生も山梨で暮らしていました。
山梨県にいながら、その作品が映画化したという人は、僕が知っている限りその2人だけです。僕も東京に出たのは、学生時代と東京支社勤務の2年間で、『白磁の人』が映画化になった。ですから、旧増穂町の3人だけが、全く東京に関係なく、映画作りをしてもらった。僕は、こういうのも変わっていて、面白い町だなと思っています。

矢崎
そうですね。僕は、直木賞候補になり、太宰治や井伏鱒二のエッセイなどに登場する熊王徳平さんが青柳在住と知り、学生の頃に会いに行きました。すると、銭湯に行っては銭湯で聞いた話を書いているというようなことをお話してくださいました。目が鋭くてすごく素敵なおじいちゃんでした。ですから、もっともっと地元にすごい人たちがいたということを皆さんに知ってもらえたらなと思います。

江宮:
そうですね。僕は子どもの頃から、熊王さんを知っていました。毎日、近所の銭湯に行く近所のおじさんだと思った人が、素晴らしい作家さんなんて全く知りませんでした。後で知った時に、もっといろんな話聞いておけばよかったと思いましたね。

矢崎:
やはり近所のおじさんが、いかに地域の子どもたちを育てていくかということが僕は一番だと思います。
熊王さんのご近所からは江宮先生たちが生まれてきています。富士川町に生まれて、今も生活しているのなら、人を育てるなんて分際じゃないけど、新しい才能の発芽に協力できたらと、このふじかわ塾をやっていきたいと思っています。

江宮:
ですから僕の『政治的良心に従います 石橋湛山の生涯』の序章は、熊王徳平さんから始まります。徳平さんが直木賞候補に選ばれた時に、石橋さんが首相になります。「もし俺が直木賞取ったら、新しい首相とどこかの新聞で対談ができるのでは」と思うのです。なぜなら、この2人は、又従兄弟だからです。僕にとって徳平さんはとても好きなおじさんなので、石橋湛山を書き始めた時、オマージュとして、熊王さんを小説の中に入れました。そして、最後にわずか2ヶ月で石橋さんが退陣した時、熊王さんが「又従兄弟にいろんな夢を見させてもらった」と最後にも再登場する仕掛けを作りましました。
確かに地域に素晴らしい人は、たくさんいますよね。神永学くんだとか保坂和志さんとか、そういう意味では、これからもっともっと知られていく人になるので、彼らが故郷に帰ってきて、いろんなところで故郷の人と触れ合ってくれると嬉しいなと思っています。
今言いましたように、芥川賞作家がこの町から出ているって知らない人が多くいますよね。保坂さんはね、お父さんお母さんも富士川町の人ですが、子どもの頃に鎌倉に越してしまったのであまり知られていません。要するに生まれだけで言っても、芥川賞作家が出た町なのですよこの町は。そういうことを、もっと知ってもらいたいと思っています。
矢崎監督も保坂さんと親しいですよね。

矢崎
はい。保坂さんが毎年主催する花見に今年参加しました。近いうちに彼の原作で映画を撮りたいと思っています。

江宮
その話は初めて聞きました。もう時間がないので最後になりますが、監督の一番新しい映画とか、これからの映画についての報告をお願いします。

矢崎
ちょっと題名や出演者とかまだ言えませんが、この夏に瀬戸内海を舞台に、映画を撮っています。まだ冬のシーンの撮影が残っていて、来年の秋ぐらいには皆さんに観ていただけるかなと思います。
今年の3月公開の「早乙女カナコの場合は」が、県内で上映できませんでしたが、皆さんの協力で9月12日から1週間、甲府セントラルBe館で限定上映します。13日には、僕も舞台挨拶に行きますのでよかったら劇場で観ていただけたら嬉しいです。

江宮:
ちょうど時間となりました。ふじかわ塾開校式の記念対談という形ですけれども、こんなに映画のことや小説の事を話せたのは僕自身、初めてでした。そういった意味でふじかわ塾、脚本と小説の各コースとも前向きに取り組んでいきたいと思います。
これからもよろしくお願いします。ありがとうございました。

 

 

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