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REPORT-レポート
11/22 文学歴史セミナー〈戦後ニッポンを照らしたアナウンサー 宮田輝〉 古谷敏郎氏
「文学・歴史セミナー」の第4弾が、11月22日(土)に開催されました。今年度最初の登壇は、NHKエグディクティブアナウンサー 古谷敏郎氏です。古谷氏はアナウンサーでありながら『評伝 宮田輝』(文藝春秋)をご執筆されており、放送百年の節目の年に、日本の放送の黎明期にご活躍された宮田輝さんについてお話をいただきました。
アナウンサーという道を選ぶまで
私は、1965年に東京の八王子に生まれました。中学校高校と6年間、吹奏楽部で金管楽器のチューバをやっていました。高校には吹奏楽部がなく、仲間4人で吹奏楽部を創部し、その部は後輩が引き継ぎ、今では東京都のコンクール金賞の常連校になりました。一浪し、ただ一校、私を拾ってくれたのが、東京経済大学経営学部でした。経営に全く興味なかったのですが、人生というのはわかりません。キャンパスに落ちていた大学の学生新聞に先輩の紹介記事「OB・NHKチーフアナウンサー相川浩」がありました。
相川浩さん1957年にNHK入局。クイズ番組「ゲーム ホントにホント」「お国自慢にしひがし」「紅白歌合戦」の司会、晩年は深田久弥さんの「日本百名山」のナレーションをする職人気質の素晴らしいアナウンサーです。小学生のころ、相川さんのクイズ番組を見て、「相川浩っておじさん、なんか不思議だな。歌うわけでも、芝居を演じるわけでもない、ただマイク持って喋って他の人に喋らせる役目だけど、この人がいると番組が面白くなるし、楽しくなる。司会って面白い仕事だな」と思ったのです。
私は迷わず、大学図書館のOB名簿を調べて相川さんに手紙を出しました。「私は相川さんの番組を見て、NHKよりもアナウンサーという仕事に興味を持ったことがあります。ぜひ相川さんに、アナウンサーの仕事について、お話を聞かせていただけませんか?」 と。すぐに返事をいただき、渋谷の放送センターを訪ねました。4階の正面玄関の広い吹き抜けの階段から、颯爽と相川さんが降りてきた姿はすごくかっこよかったです。相川さんは食堂で2時間ぐらいアナウンサーの仕事について話してくださいました。それがNHKを受験するきっかけです。
NHKのほかに民放も受けましたが、NHKのみ内定が出ました。もう一つ、国税専門官の試験が受かっていたので、相川浩さんに相談に行きました。すると「それはもう国税局行った方がいいよね」と即答。相川さんは私に「NHKにアナウンサーって何人いると思う?500人のアナウンサーが、まずローカル局からスタートして、その後一部の人間が拠点局(札幌、広島、福岡、東海、名古屋、東北、仙台)に異動。そこから限られた人間が大阪放送局に行く。さらに限られた人間が東京アナウンス室に行き、限られた人間が番組を担当し、何年か勤め、また転勤する。そういうサバイバルなんだ」と。「古谷くん、こんな世界やっていけるかい?」と。そして、帰り際、「古谷くんもね、全然畑の違う仕事だけど頑張ってよ。ただね、番組作り、アナウンサーの仕事ってのはね、毎日が学園祭、毎日が文化祭なんだよな」と言うんです。吹奏楽部にとっては、文化祭・学園祭も晴れ舞台でそんな楽しいことやって、仕事になるの、給料もらえるのって、思い、悩み、結局、清水の舞台から飛び降りるつもりでNHKに入り、今ここにいるというわけです。
私は1989年に大学を卒業してNHKに就職、初任地が奈良でした。奈良、松山、大阪、東京、松山、東京、札幌、東京で、局歴を36年終わりまして、今年定年退職になりました。「一緒に番組をやらないかと言ってくださる局があったら日本全国行きますから」と上司に相談し、甲府放送局に来ました。放送局が駅のすぐそばにある放送局ってないですよ。そんな恵まれた中で、「ニュースかいドキ」のキャスターでまた花道をいただきました。ではこれから宮田輝さんについてお話をしていきたいと思います。
アナウンサー 宮田輝
宮田輝さんは、1921年、東京都足立区伊興町に生まれました。世田谷にある自宅で奥様の宮田恵美さんが1人で住んでいらっしゃいました。恵美さんはNHK放送劇団の出身で、先輩に荒木美智子さん、後輩に黒柳徹子さんがいます。宮田輝さんとは職場結婚ですね。
宮田輝さんの本名は、“輝”という字で、“あきら”といいますが、パスポートを見ても、読みは“みやたてる”となっています。明治大学に進み、1942年にNHKに入局。昔の取材で、元々は新聞記者に憧れたと答えていますが、結果的にジャーナリストのメディアの仕事としてNHKを選びました。
宮田さんと同年に高橋圭三さんも入局します。「日本レコード大賞」「かくし芸大会」など様々な番組に登場します。高橋さんは非常に時代を先取りしていて、フリーアナウンサーというポジションや仕事を開拓しようとNHKを早めに辞め、TBSと契約を結び活躍しました。後に参議院議員も1期務めています。高橋圭三さんと宮田輝さんは、NHKの最終面接では、ほぼ隣同士でした。五十音順で高橋さんが先に、その次に宮田さんが面接。そして宮田さんが出てきたら高橋さんが待っていて「こうやって会うのも何かの縁だから、お茶でもしよう」「お互い全然違うジャンルに行って、違う人生が始まるだろうけど、頑張ろう」なんて言って別れたそうです。それから数ヶ月後、内定者が全員集合のとき高橋さんと宮田さんはお互いに「おまえも受かったのか」となり、その後は龍虎の戦いのように、良きライバルとして切磋琢磨を続けていくことになります。
宮田さんがNHKに入局した1942年は戦争も厳しくなって、伝える情報も限られていました。例えば、天気予報は米軍にとっての有利な、空襲のときの情報になるため放送できませんでした。1944、45年頃、広島や九州に大きな台風が襲っているのですが、満足に天気予報を出せなかったために被害が出ました。大先輩のNHK記者の柳田邦男さんが『空白の天気図』(文藝春秋)にも書いていますが、天気予報すら出せない時代でした。
宮田さんの初任地は名古屋で、2年務め東京へ転勤になります。2年で転勤というのはまずないのではないかと思います。良い仕事をして優秀だったのだと思います。その後、東京異動の内示をもらい、帰省するその車中で召集令状を受け取り、そのまま実家にも寄らず、軍に進み北朝鮮の平壌で高射砲部隊に入ります。大砲を撃って、分解して移動して、組み立ててまた撃ってのその繰り返しです。とにかく軍隊は、体力とそれから人間性、人柄、もうそれしか役に立たない。それしか人間は評価されないということを、20代の宮田さんは書いています。戦地での写真から見るに、170センチを超えた堂々たる恰幅の晩年の宮田さんから比べると、痩せ細っています。このあと身体を壊して帰国し、千代田区内幸町にあった日本放送協会に復帰しアナウンサーの仕事をすることになります。
入局時、宮田さんを評価して採用した人物が和田信賢さんです。和田さんは、1934年にNHKに入局し、NHKの中興の祖、アナウンスの神様とも呼ばれています。双葉山の「双葉山70連勝ならず。人生70古来まれなり」という一世を風靡したスポーツ実況のアナウンサーでもあり、また、玉音放送の解説もしました。徳川夢声さんやサトウハチローさんも出演している「話の泉」というクイズ番組の司会も務めます。信賢さんは、「硬軟自在、スポーツ、報道、芸能、フルコースのアナウンサーたれ」と指導し、終生、宮田さんの師匠、恩師になります。
信賢さんは、1952年にヘルシンキオリンピックの実況アナウンサーとして現地に行くことになります。信賢さんは持病もあり、当時流行っていたヒロポンもやっていて、ずいぶん体調を崩していました。しかし、オリンピックの担当に選ばれたときに、信賢さんは何としても「俺は行く」と言いました。1940年の東京オリンピックは戦争で中止、その後も中止や不参加と続き、ようやく晴れて日本が参加できたのが、ヘルシンキオリンピックでした。信賢さんは、「俺、これが夢だったんだ。このためにアナウンサーになったんだ」と言って現地に向かいます。周囲が体調を思って引き止めたのですが、信賢さんはそれを聞きませんでした。反面「やっぱり職人として晴舞台をやっぱり経験させてやりたいよな」との思いがありました。宮田さんは出発前夜に和田さんのお宅を訪れて写真を撮りました。二人の関係性が伺われます。ヘルシンキの実況は今でもNHKのアーカイブスに残っていますが、朗々とした素晴らしい美声です。
しかし、信賢さんは、パリの病院で40歳の若さで亡くなります。奥様の和田実枝子さんは「最後、和田がね、日本語が話せないところで死んだっていうのがすごくね、かわいそう。あれだけの日本語の使い手が、日本語は通じない場所で息を引き取らざるを得なかったっていうのがね、本当に不憫だ」とおっしゃっていました。
この宮田さんが撮影した写真が、信賢さんの遺影になりました。娘のかおるさんは、実はお父さんを知りません。ヘルシンキに向かうときに奥様は妊娠中で、おなかの子がかおるさんでした。かおるさんはこの遺影の写真が唯一のお父さんを偲ぶ拠り所だったと、おっしゃっています。信賢さんは宮田さんのことが可愛くてしょうがなかったし、宮田さんも本当に信賢さんのことを慕っていたんでしょう。この写真は宮田家の書庫で見つけました。
NHKに入局した宮田輝さんは、とにかく攻めます。チャレンジ精神。この写真は潜水服を着て、海に沈んだ戦艦を引き上げるという取材を自ら海底に潜ってやっているところです。当時はラジオ放送ですよ。本当に先輩として敬意を表します。
宮田さんは、1949年に「のど自慢」を担当し、18年間司会を務めました。本当に大好評でした。この「のど自慢」は、戦後まもなく1946年から始まっています。当時の米軍連合軍からの指令もあり、「民主化を放送で形に表せ、みんなが放送に参加する、一般の人を番組に登場をしてもらえ」ということでした。当時放送局も困ったと思います。そこでいろいろ考えます。一つは、報道分野での「街頭録音」。これは毎回アナウンサーが街頭の人にテーマに沿った質問をして、声を集めるという番組です。ちなみに第1回のテーマは、「あなたはどうやって食べていますか」。切実ですよね。
もう一つは、娯楽番組、芸能番組です。ラジオですから、聴取者参加の番組として考え出されたのが「のど自慢」だったのです。歌ってもらうのはいいのですが、インタビューに苦労しました。いきなりマイクを向けられると、やっぱり緊張します。限られた時間の生放送ですから、本当にアナウンサー泣かせだったそうです。初代アナウンサーが、高橋恵三さんです。あの天才と言われた高橋恵三さんをもってしても「苦労した」と後にインタビューで語っています。
司会者が代替わりしながら登板するのですが、どのアナウンサーもなかなかうまくいかない。それで、6代目に登場したのが宮田輝さん。宮田さんになってから一気に人気番組になっていきます。宮田さんは、ここで出場者の声、それをうまく引き出す素晴らしいインタビューをするんです。同業者としてどんなノウハウを駆使してインタビュー術を考え出したのかと、不思議でした。
和田信賢さんがヘルシンキに行く話をしましたが、その途中、トランジットで沖縄に寄ったとき、沖縄放送局のアナウンサーが信賢さんに、オリンピックに向けての抱負をインタビューしていたのです。その録音を今からちょうど10年前、放送90年の節目にラジオで紹介しました。放送後「あのときに和田信賢にインタビューしたのは私です」とお手紙が届きました。川平朝清さんというアナウンサーですが、息子さんは、ジョン・カビラさんと川平慈英さんでした。
それで、私はすぐに会いに行きました。川平さんは当時90歳ぐらいでした。1952年に川平さんは、連合軍のアメリカの計らいで、東京でのアナウンサーの新人研修に参加しました。その研修の講師は、ヘルシンキに行く前の和田信賢さん、そして、宮田輝さんもいました。宮田さんの講義は、そのものズバリ「のど自慢の司会」という講義です。川平朝清さんは東京のNHKの新人たちと一緒に受けた研修が本当に思い出深い大切な経験だったので、テキストを製本して大事に取っておいていたんです。宮田輝講師のテキストも残っていました。私は、川平さんからお借りして、何度も読み返して、初めて宮田輝さんの舞台裏の、司会術の手練手管というのがわかりました。宮田さんは惜しげもなく、新人アナウンサーたちに「のど自慢」の司会の極秘を披露しているんです。要は取材です。その会場に集まった人たちをできる限り事前に取材し、下調べし、それを臨機応変に話していく。それを実行してあの面白い「のど自慢」を作り上げたのでした。
北海道の函館で開催された「のど自慢」で、函館西高校2年の男子生徒が、三浦洸一さんの「落葉しぐれ」を歌いましたが、鐘が2個で合格できなかった。すると宮田さんがすかさず「いや残念でしたねえ。いい声だったねえ」って言ったんです。その学生は不合格だったけれども、天下の宮田輝にいい声だったと言われて、「よし、俺は歌手になるしかない」と思います。親は船を売って高校へ行かせたのですが、高校を辞めて東京に行き、歌手の専門学校に入ります。すぐには売れませんから、流しをやります。それが今の北島三郎さんです。
もちろん北島三郎さんにも聞きました。「そりゃそうだよ。もう宮田輝さんがね、俺の背中を押してくれたんだから」と。大スターになって、その当時のことを宮田さんに話すのですが、宮田さんは「そうだったっけ」って全く忘れているそうです。すると北島さんも「そりゃそうだよ、もう全国を18年間回っていたんだから、その中の一人が俺だったんだ。だけど、俺にとっては宮田輝さんのその一言が人生を変えたんだ」と今でも語ってらっしゃいます。
さらに1952年には「三つの歌」という番組をやります。これはピアノの伴奏だけで3曲流して「一番全部歌えますか?」という、歌を使ったクイズ番組です。賞金があるという画期的な番組で、これも18年間務めました。「のど自慢」と「三つの歌」この二つの番組を同時並行でやり、どちらの番組も週2回、全国公開放送で回っていました。恵美夫人が「本当に家にいなかった」と言っています。空港に奥様が、次の旅行の洋服届け、そこで「お父ちゃん、次はこのスーツ着るんですよ」って渡していたというぐらいです。これを18年続けました。1953年頃から「紅白歌合戦」も担当するようになります。最初の紅白から宮田さんが選挙に出る直前までの21年間、15回司会(白組司会11回、紅組司会2回、総合司会2回)を務めています。こんな人はもう他にいません。しかも、昭和30、40年代の「紅白歌合戦」の視聴率は70%後半。特に1963年の第14回は81.4%、約8000万人が「紅白歌合戦」を観ていました。
戦争でテレビの開発が実現できず、戦後に再開され、1953年にテレビ放送がスタートします。その実験放送に宮田さんは取り組んでいました。そこで初めて、カメラを向ければ、人や地域や、世間が見える、時代が映せる。映すことで情報が伝えられることに感動した宮田さんは、全国津々浦々、失われかけている文化、芸能、郷土芸能を、発信していくような番組ができないかと、提案をし続けました。やっと6年越しの夢が叶って結実したのが、1966年~73年まで続いた「ふるさとの歌まつり」でした。宮田さんは「のど自慢」や「三つの歌」で全国を回ります。当時は一極集中、東京に文化も情報も人もどんどん流れていく。その中で、各地の人口も減り、お祭りを伝承する機会がどんどん減っていく、トラックに神輿を乗せての祭りの巡行という様子をすごく寂しいと見ていました。宮田さんは、この「ふるさとの歌まつり」で、東京から地方へではなく、地方各地から全国に向けてという画期的な番組をやります。実は山梨県も、「ふるさとの歌まつり」を2回放送しています。甲府の「甲府囃子」、山中湖の山中諏訪神社の「安産祭り」、そして富士吉田の「吉田太々神楽(よしだだいだいかぐら)」が紹介されました。番組で紹介した郷土芸能がその後、文化財の指定を受けたということもあります。
宮田さんが、吉田茂さんにインタビューしている写真があります。最初、吉田さんは、インタビューしても全然答えてくれなかったそうです。「ああ駄目だ、これは撮れ高ゼロだ、この番組は失敗だ」と思ったら、そこに吉田茂さんの愛犬が現れました。宮田さんは大の犬好きで、愛犬がきっかけでいっぺんに吉田茂さんから気に入られ、その後インタビューがうまくいったそうです。ちなみに3匹の犬の名前は「サン」と「フラン」と「シスコ」です。
政治家 宮田輝
1974年7月の七夕選挙と言われた参議院選挙。宮田さんは、突然選挙に出るといいます。なぜ選挙に出たのか。私が取材する謎の一つでもありました。当時は田中角栄政権でしたが、物価の高騰などで人気が下がりはじめ、この選挙で一挙挽回しなければならない。そこで考えたのが、企業で候補者を応援させる企業ぐるみ選挙、そしてタレント候補擁立でした。宮田さんは、政治の世界に行くつもりは全くありませんでしたが、出馬することになる事情がありました。当時の郵政大臣が田中角栄さんでNHK会長の小野吉郎さんは元郵政事務次官でした。その会長からのトップダウンでした。さらに、NHKの労働組合、日本放送労働組合(日放労)が大変力を持っていて、その委員長が社会党の国会議員上田哲さんでした。社会党から上田哲が出ている、となると自民党もNHKからしかるべき対抗馬が欲しいとなる。NHKの上層部は宮田さんに「休職して、1期でも頑張ってください」「そしたらまた戻ってきて復帰してくださいよ」ということで、出馬します。宮田輝さんの選挙事務局として手伝った方に取材すると、「宮田輝さんの行くところ行くところお祭りだった」と言っていました。宮田輝さんは259万票というトップ当選で参議院議員になります。259万票は当時、史上トップの票数です。
宮田さんは農林水産政務次官などを務め、尽力した仕事の一つが、昭和記念公園の設立です。東京都立川市にある米軍基地、立川基地が軍から返還される。広大なあの敷地を何に使うか、東大や中央官庁などが欲しがっているなか、宮田さんは一貫して、「ここにふるさとを実感できるような公園を作りましょう」と早い時期から委員会のたびに、力説していました。昭和記念公園がいよいよ着工となり、宮田さんは昭和記念公園の設立準備委員会の委員長となります。開園式の写真には、昭和天皇が自らお出ましになって、当時の中曽根総理、入江侍従長、そして委員長の宮田輝さんがいます。昭和記念公園設立をやり遂げたことは、国会議員になってよかったという手応えを宮田さんは感じたんじゃないかなと思います。
宮田さんは議員を2期務め、放送の仕事を忘れてはいませんでしたが、NHKには戻れない事情がありました。当時のNHKは、上田哲率いる日放労が牛耳っていますから、宮田輝色を一掃していました。また、「休職扱いで一つ」と頼んだ、小野吉郎さんも会長を辞任し、宮田さんは戻る場所がなくなってしまいました。そこで、政治家として3期目も目指そうとしますが、この時の選挙は、比例代表制度が取り入れられます。名簿で順位が決まり、ドント式という計算の得票数に従い、上から何番目までが当選という仕組みに変わりました。自民党が決めた名簿の登載順位、宮田さんは22位、ほぼ当選は不可能です。この時奥様は、政治家になる時も猛反対でしたから、「やっと政治の世界から足洗ってくれる。よかった、よかった。」と喜んで、自民党議員会館にあるものを全部引き上げて空っぽにしたそうです。
ところが、宮田さんは、最後の最後で当選。幸か不幸か、宮田さんの3期目の人生が始まります。しかし、宮田さんは3期目の途中で、腫瘍ができ、それが徐々に頭の方に進んでしまい、最後はがんで亡くなりました。1990年、68歳でした。
人間 宮田輝
私は何とか宮田輝さんのことを後に残したい、せめて文章の形で残したいと思っていました。とにかく奥様の美恵さんにだけでも読んでもらえばと思い、取材を始めました。仕事抜きで、休みの日に札幌から世田谷の家に通いました。
最初は、けんもほろろでした。「今どきお父ちゃんの取材?何しに来たの」という感じでした。NHKを早く辞める、政治家になって途中で亡くなる、当時の週刊誌なり新聞なりにあることないこと書かれて、奥様もうんざりしていました。御主人が残した資料を大事に守ることを最後の使命のように、恵美さんは最晩年を過ごしていました。それでもあきらめず何回か通ううちに、家に入れてくれるようになり、最後は合鍵まで渡されるようになりました。そして、書庫に入れてくれるようになりました。その書庫を見てびっくりしました。宮田輝さんがこれまで全国を回ってきた取材ノートから原稿から、メモから何から全て残っていたんです。全国回って、ファンの方、お客様から渡された千羽鶴、お手紙の一通まで全て残っていたんです。まるでタイムカプセルでした。こういう場所で取材できるのは、多分この仕事を始めて20年、30年に一度あるかないかです。その当時は本にまとめようとは考えてはなく、とにかく後輩に勉強会か何かで発表できればいいなと思い、取材を始めました。
その気持ちと、一つは、私はNHK入局した時から「のど自慢」を担当するのが夢でした。その「のど自慢」の中興の祖とも言える、宮田輝という人物はどんな人だったのかという素朴な疑問もありました。それからもう一つ、宮田輝さんのかつての歩みを紹介した番組の中で「ふるさとの歌まつり」の場面です。お客さんの中にいたおばあちゃんが、宮田さんがマイクを向けると、「宮田さん、やっと宮田さんに会えたよ」と。そして「私もう死んでもいいよ」って手を合わせるんです。宮田さんは笑いながら「そんなことをおっしゃっちゃいけませんよ。どちらから」と言ってインタビューする。そのときに私は「お客様から死んでもいいって言われるようなアナウンサーってどういうアナウンサーなんだろう。アナウンサーという存在が、皆さんの生活、もっと言うと人生にも関わっているかもしれない」という思いも、一つのモチベーションになりました。私が今から10年前、放送90年の時に一連の宮田輝さんの番組を制作して、ラジオで宮田輝さんの「三つの歌」を紹介しました。その後、ラジオを聞いた方からお手紙が届き、「古谷さんが放送した宮田輝さんのかつてのあの喋り、あの司会を、仏壇の遺影の父親に聞かせました。うちの父親は宮田輝さんの大ファンで、その声を聴いて、位牌の父親も喜んでいると思います」とありました。そういうことを言われるアナウンサーのことを、私はもっと知りたいなと思う、それもモチベーションになりました。
それから、宮田さんを調べるにつれ、いい意味で裏切られてきたんです。大番組を仕切っていくような人ですから、ワンマンで自己主張が強いというか、俺についてこいというタイプの人じゃないと、こんな番組はできないと思ったんです。ところが、調べるに従って、その宮田輝像が裏切られていくんです。宮田輝さんの集合写真があります。一番後ろに宮田さんがちょこっと顔だけ出して写っています。「なんで一番後ろに写ってんですか」と聞くと、恵美さんは「いや、うちのお父ちゃんはね、集合写真撮ろうっていうと、前へ前へってみんなに言って、結局自分が一番後ろ。アナウンサーやってるとそうなのかしらね」なんて笑っていました。
この一連の取材の中で、当時のプロデューサー、ディレクター、自民党の関係者も取材しました。共通しているのは「宮田輝さんはアナウンサーとしては偉大でした。でも、人間宮田輝は、アナウンサーよりも遥かに優れた人でした」と言うことでした。
1990年、宮田輝さんが亡くなったとき、お別れの会が青山葬儀場で開かれました。宮田さんは、そのときの段取りまで当時のプロデューサー、ディレクターかつての仲間を集めて、こんなふうにやってくれと、自分のお別れの会のお膳立てまでしました。プロデューサーたちは半分冗談で受け取って、気楽な気持ちで好き勝手アイディア出したそうです。司会は誰にするかたずねると、宮田さんは「もう僕のイメージ決まってんだよ。 相川浩さん。相ちゃんに頼みたいんだ」と。相川さんは宮田さんの12年後輩、当時57歳でした。私にとってはNHKに入るきっかけ作ってくれた相川浩さんを、宮田さんは自分の後継者だと思っていたっていうのが、私は不思議な巡り合わせだなと思います。
宮田さんは本当に愚直な人だと思います。そしてみんなが言います。宮田さんだったらもうここまで準備しなくてもいいだろうというようなことを、それでも一字一句、もう1回原稿用紙に文章を書くんです。お客様は毎回違うから、その初めてのお客様にもう1回一から原稿を書き直して、もちろんそのベースには新たな取材をする、そういう仕事をやってきた愚直な人です。宮田さんが出馬し、NHKを辞めるときに、後輩のアナウンサーたちがお別れの色紙を送りました。鈴木健二さん、山川静夫さん、後輩がみんな、先輩宮田輝さんに「政界に行っても頑張ってください」と威勢のいい色紙を送ったんです。そのとき、相川さんが送った色紙が、小林一茶の俳句で、「春立つや愚の上に又愚にかへる」と書いたものでした。
宮田さん自身も「人間の愚か 愚直でいいじゃないか」というような走り書きを残しています。コツコツ自分のできる範囲で丁寧に仕事をやっていくという姿勢を相川浩さんも宮田さんも持っていて、宮田さんも相川さんのそういう面を見抜いていたのかもしれないと思います。巡り合わせの不思議を感じます。奥様、恵美さんは93歳で亡くなりました。宮田輝さんと河口慧海さんの二人の遺影に見つめられながら、青梅の施設で亡くなりました。河口慧海という方は、戦前にチベットに渡り、経典を持ち帰ってきたという大変な冒険家でもあり宗教家で、恵美さんのおじさんに当たります。恵美さんにこの本を届けられなかったことだけが、残念です。宮田輝さんが終生座右の銘として欠かせなかったのが、「尊縁」という言葉です。縁を尊ぶ、尊い縁、この言葉を常に色紙に書いて宮田さんは贈っていました。
考えてみると本当に「縁」って不思議だなと思います。こうやって私がNHKのアナウンサーになって、山梨の皆さんとお話できるのも、考えてみたら、宮田さんのきっかけでしょうし、この尊縁のおかげだなと思っています。本当に感謝でいっぱいです。大変駆け足ではありますけれども、今日のお話の締めくくりとさせていただきたいと思います。
ご清聴いただきまして本当にありがとうございました。