REPORT-レポート

1/18 文学歴史セミナー〈豊臣兄弟と戦国武将〉講師:江宮隆之氏

1月18日(日)に文学歴史セミナーが開催されたました。今回は大河ドラマで注目を集めている豊臣兄弟と、それに関わる戦国武将について、町内在住で歴史作家の江宮隆之氏からお話をしていただきました。興味を持った中学生も数名聴講し、魅了されていました。その講演の概要をまとめましたので、ご覧ください。

 

大河ドラマ『豊臣兄弟!』のコンセプト

今年になり「緋牡丹博徒」という映画が放送され、それを観ていると、唐獅牡丹というのがあり、調べてみると面白いことがあました。獅子は百獣の王で、世界一強い動物、そして、牡丹は百花の王で、美しいもの中で最高のものです。唐獅子牡丹の取り合わせを見たとき、獅子は最強だが「獅子身中の虫」といって、慢心や思い上がりといった内なる弱点を抱えている。その唯一の弱点を退治できるのが牡丹の花に宿る夜露の一滴と言われています。ですから、獅子と牡丹は、外敵だけでなく、内なる弱点をも克服した最強の取り合わせを意味します。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、兄弟愛、家族愛が中心のドラマにしたいというのが、製作側の意図にあると関係者から伺っています。兄・秀吉を獅子、弟・秀長を牡丹になぞらえ、兄弟愛、家族愛を軸に二人が最強のパートナーとして天下を目指す物語です。獅子と牡丹は二人の着物の柄にも反映されていて、二人の出世と共に、その模様がはっきりしてくるという演出がなされているそうです。そんなことも意識しながらドラマを観ていただくと、少し意味合いも変わってくるのではないかと思います。

天下人・豊臣秀吉 政権基盤と構築

秀吉は1537(天文6)年、現在の名古屋市中村区に生まれました。継父は足軽と百姓を兼ねる低い身分でした。母が二人目の父と再婚したとき、父と反りが合わずに家を飛び出し、その後、針売りなどをして、最終的に信長にたどり着きます。織田信長は実力主義を徹底する人でした。それは信長自身が織田家の中でも身分が低く、出自や家格に一切頓着せず、百姓でも盗賊出身でも、能力がある者は誰でも登用したからで、秀吉もその一人でした。28歳で木下藤吉郎を名乗り、36歳になったとき、信長の重臣である丹羽長秀の「羽」と柴田勝家「柴」をもらい受け、「羽柴」と改姓しました。これは藤吉郎が家臣からの嫉妬をかわし、自信の地位を固めるための計算高い戦略だったと考えられます。こうして徐々に秀吉は、織田軍団の中で五本の指に入る存在になっていきます。
1582(天正10)年、織田信長が本能寺で殺される事件があり、これがきっかけで秀吉に勢いがつきます。その後、清須会議や賤ヶ岳の戦いでライバルを排除し、天下人への道を歩んでいきます。

秀吉を支えた牡丹 秀長

秀吉より7歳年下の小一郎(秀長)は、調子がよく、人の心に取り入るのが上手な兄とは正反対に、真面目で実直、学問がなかったものの、非常に勉強家でもありました。兄の起こした問題の後始末をするなど、まさに獅子である秀吉を支える牡丹としての役割を果たしていきます。小一郎は、信長に仕えた際、信長の「長」、秀吉の「秀」をもらい、長秀を名乗りました。その後、本能寺の変で信長が亡くなり、秀吉の天下が定まろうという頃、長秀を逆さにし、秀長を名乗っていきます。
秀長は兄の補佐役に留まらず、通説では金ケ崎の退き口で、秀吉が殿(しんがり)を務めたことになっていますが、実際には秀長が主体となって戦ったことが近年の研究で明らかになっています。更に、四国征伐や九州征伐では総大将として軍を率い、勝利に導くなど卓越した軍事能力も発揮しました。秀吉政権後には、徳川家康などの秀吉よりも格上であった大名たちとの間に立ち、巧みな交渉術で政権の潤滑油としての役割を担いました。秀吉も秀長に対し信頼を寄せ、秀長という圧倒的な協力者の存在を、誰もが認めるようになっていきました。
秀吉は、秀長の功績に対し、奈良の大和郡山城を拠点とした大和、和泉、紀伊の100万石を与えました。大和の国は、歴史のある名だたる神社仏閣ばかりで、気位も高く、治めるのが難しい国でしたが、秀長は交渉力と資金力を背景に巧みに介入していきます。そこで刀狩や検地を成功させ、太閤検地、刀狩りのモデルケースにもなりました。
また秀長は、人を大事にすると同時に文化の振興にも力を注ぎました。奈良に、白地に赤色で模様を付けた赤膚焼という有名な焼き物があります。秀長が大和郡山に入った後、常滑から陶工を招き、奈良の五条市にある赤膚山の土を使い作らせたものです。そのとき仕えていたのが、茶人の小堀遠州です。秀長の小姓の一人で、小堀遠州の父も一緒に仕え、それが後にこの赤膚焼を世に広めることになりました。秀長が、文化についても有能な人物を引き立てていったことも大きな功績のひとつです。
ここまで、秀吉と秀長は二人三脚で、獅子と牡丹の役割をそれぞれが果たしてきましたが、秀長は徐々に身体を壊していきます。小田原攻めのころには、秀長は病に倒れ、翌年、1590(天正18)年に51歳で亡くなりました。

秀長の家臣 藤堂高虎の君主を見抜く慧眼と忠義

秀長の家臣の中でも特に注目すべき人物に藤堂高虎がいます。私が10年ほど前に出した本の中に『7人の主君を渡り歩いた男 藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)があります。私は主人公を好きにならないと書けない人間です。依頼のあったとき、高虎について調べていくと、調べるほどに好きになっていきました。高虎は、7度も主君を替えたことから「戦国の風見鶏」と揶揄されることもあります。しかし、この時代は仕える主君を間違えると、自分も家族も路頭に迷いました。場合によっては命も失います。だから、主君を何度も替えたのは、乱世を生き抜くための卓越した人を見る眼の現れだと言えます。高虎は、身長190cm、体重160kgでした。戦いのときには真っ先に駆けていき、矢が飛んでこようが相手が槍を出そうが、全く怯えず、とても勇敢でした。秀長は高虎の器量を見抜き、足軽頭として迎え入れる際には、いきなり300石を与えています。秀長に仕えてからは、経理や儒教精神、四書五経を学びました。その中で一番大事にしたのが人間としての生き方です。特に現場主義を徹底した高虎は、石工や大工から直接技術を習得し、築城の名人となりました。また、城郭を作る加藤清正、黒田官兵衛らが城郭の名人と言われるのは、秀長のもとで築城を学んだ結果です。
秀長の紹介で高虎が徳川家康の屋敷を設計した際には、依頼とは異なる防衛機能を高める設計をしたことで、家康から深い信頼を得ました。 ここから高虎と家康の人間関係は繋がっていきました。
高虎は人の命をとても大事にした人です。自身の死の際、8割の家臣が殉死を望んでいると知り、家臣の命を惜しんだ高虎は、家康にそのことを伝え、殉死禁止の命令を願い出ました。家康は諸大名を呼び、殉死禁止令を出しました。人の命は軽々しく扱ってはいけないという、高虎の強い思いを感じます。高虎は家康が亡くなったとき、それまでの日蓮宗から、家康と同じ、天台宗に変えるほど、家康には忠誠を尽くしました。
高虎が亡くなったとき、家臣が高虎を湯灌するため、身体を検めました。高虎はそれまで一切、自分の体を人に見せたことはありませんでしたが、家臣が身体を調べると、刀傷、槍傷など残っていた傷が、99箇所あり、指も数本失われていました。生前、その苦痛を家臣に見せることがなかったという逸話は、高虎の強い精神と家臣思いの人間性を感じさせます。戦国時代の最も素晴らしい武将ではないでしょうか。この高虎のもっているものを見抜いた、秀長も素晴らしい人であり、同様に、徳川家の譜代の上に藤堂家を置いた、徳川家康もすごいと思います。
歴史を見たとき、これまでの歴史が今とどう繋がっているかを考えるのは大事なところです。例えば100年後に今の政権がどう評価されるかを、マイナスの意味でもプラスの意味でも、それを頭に置いて行動するのも政治家にとって必要だと思います。石橋湛山は100年後に語られています。しかも全てプラスの評価です。共通テストに未だに出てくる首相が他にいるでしょうか。長い歴史を見たとき、この『7人の主君を渡り歩いた男 藤堂高虎という生き方』を書いてよかったと改めて思います。

戦国武将の兄弟関係

親兄弟が殺し合うことが珍しくなかった戦国時代において、豊臣兄弟の協力し合う関係は際立っていました。
対立関係の代表としては、家督を巡って弟の信勝を殺した織田信長、同じく弟を手にかけた伊達政宗と小次郎兄弟がいます。
一方、兄弟で協力関係にあった例としては「三本の矢」の教えで知られる毛利元就の三人息子がいます。毛利家を大きくし、結果的には中国地方の覇者になっていきます。北条氏政の兄弟は決して争うことはなく、秀吉に滅ぼされるまで連携プレーで戦いました。島津4兄弟は、九州の全体をまとめ上げました。武田信玄と信繁は、兄弟がとても仲が良く、父親の信虎が信繁を自分の跡継ぎにしたかったが、結果として信玄が信虎を追放する形になったとき、武田家は2つに割れました。しかし、信繁は兄の信玄を立て、兄を支持したことにより、武田信玄に武田家の家督が揺るぎないものになりました。真田家が今も有名なのは、兄弟仲が良かったからだと考えてよいです。殺し合った兄弟もいれば、助け合った兄弟もいるのが戦国時代でした。

秀長の死と豊臣家の末路

秀長の死後、秀吉の行動は変わっていきます。秀長が亡くなったわずか二か月後には千利休に切腹を命じます。その後、秀吉は実子・秀頼の誕生を機に、後継者と定めていた甥の秀次を悪人にし、自害に追い込みました。姉・ともの息子・秀勝は朝鮮出兵の際、病気で亡くなりました。三男の秀保は、子どものいない秀長の養子になりましたが、17歳で急死しています。ともは、豊臣家滅亡後も生き続け、92歳の大往生を遂げました。妹・あさひも秀吉の政略の手段にされるなどの人生を送り、42歳で亡くなりました。
豊臣家は、秀吉ひとりの成功のために、秀長を含む一族全員が犠牲になったとも言えます。だからこそ今も、もし秀長が長生きしていたら、豊臣家、そして秀吉も違ったものになっていただろうと言われています。秀吉は、秀長が亡くなった後、周りの大事な人を殺していきました。秀吉が太閤秀吉になったときには、秀吉の周りには、秀吉の血が通った人間は、一人もいませんでした。豊臣政権が崩壊するのは、もう自明の理でした。もし秀長が生きていたら…。でもこれは歴史のif(もしも)だから何とも言えません。ただ、そのくらい秀長の存在は、秀吉にとっても、当時の世の中にとっても大事な存在であったということを強調しておき、今日の豊臣兄弟の話を終わりにしたいと思います。

ご静聴、ありがとうございました。

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