REPORT-レポート

8/9 雨宮弥太郎講演会 「硯の開く世界」

8月9日、硯匠の雨宮弥太郎さんによる講演会、「硯の開く世界」が開催されました。雨宮さんは、江戸時代から300年以上続く雨端硯の 彫り師、雨宮弥兵衛家の13代目に当たります。当日は、伝統を受け継ぎながら、硯を現代美術に昇華させようと研鑽を続ける雨宮さんの思いを伺いました。お話された内容を以下にご紹介します。

生い立ち、芸術家としての原点

代々硯を作る家に生まれた私は、子どもの頃から父や職人が硯を彫る姿を見ていて、それに強い憧れを持っていました。昔は、今のようにゲームなんてなかったですし、おもちゃを買ってもらえるような時代ではありませんでした。同級生もまわりの世代も、一緒になって、山や川を駆け巡って遊ぶのが日常でした。また、小学3年生のときに父にもらった大工セットは、鋸(のこぎり)や鑿(のみ)などがひとつに入ったもので、私の記憶に深く刻まれています。それを使って山の木を切ったり、竹を切ったり、冬となればソリを作って遊んだりもしました。そんな中で育まれたものが、自分の根幹には残っていて、いまだに硯作家としての感性に刻み込まれています。

もうひとつ、この道に進む原動力になったのがアートに対する憧れでした。きっかけは、定期購読していた『化学と学習』という雑誌です。毎月、付録のサイドブックが楽しみで、それに彫刻家ロダンの作品も載っていました。また、自宅にはバーバラ・ヘップワースというイギリスの女性彫刻家の画集もあって、それが大好きで強い影響を受けました。そこから刺激を受けた私は、不思議な形のものに惹かれるようになっていき、小中学生の頃には、ノートの端に自分なりの抽象彫刻のアイデアスケッチをするようになっていました。

大学は、私自身物作りが好きでしたし、父が卒業生ということもあって、藝大への進学を志しました。藝大の彫刻科で彫刻を学ぶと、硯は彫らず、現代彫刻のような抽象的なものを作っていました。その後、意識的に硯を作り始めたのは、30歳の頃になってからです。

硯

硯の石というのは、いわゆる石ではあるけれども、彫刻で使われる大理石とか御影石といった石とはまったく違います。大理石などは、磨けば磨くほど、艶が出て、存在感が出てきます。ギリシャ彫刻の神々の像は神々しい雰囲気をまとっていますし、エジプトのファラオ像は見る人を威圧するような存在感があります。王権力を象徴するような強い材質ですが、硯は磨き切りません。硯石で一番大事な要素は鋒鋩(ほうぼう)で、石の素材の中に、長石や雲母といった硬い微粒子がまんべんなく均一に散らばっているほど良い石とされます。それによって墨が磨れるので、鋒鋩を生かす磨きが、硯にとって一番良い磨きの状態といえます。また、鋒鋩の微粒子で光が乱反射することによって、ふわっと柔らかい雰囲気を持つ石質になります。硯というのは、墨を磨りながら、心を落ち着かせて、柔らかな気持ちになる、静謐(せいひつ)な気持ちになるための道具だと思います。そういった点でも、石質を生かす造形が大事になってきます。

雨畑硯

山梨の鰍沢で作られている硯は雨畑硯といいます。これに使われる石は早川の支流にある雨畑という集落で採掘されたものです。所以は色々あって、鰍沢では、元禄3(1690)年に、私の祖先の雨宮孫右衛門が、身延参詣の途中に早川で黒石を拾って、硯作りを始めたと伝えられています。一方、早川町では、日蓮聖人の弟子である日朗上人が、石を見つけて作り始めたという話が伝わっています。どちらも確たる証拠がなく、言い伝えしか残っていないので、必ず両方を伝えるようにしていますが、いずれにしても、身延山へお参りに行くという動機から原石が見つかって、硯作りが始まったといわれています。

工芸の中の硯

日本には様々な工芸技術があって、明治時代の万博では、海外に紹介するものというと、工芸品が中心でした。日本の高い技術をアピールして海外に売ることが目的で、超絶技巧の工芸品はたくさん作られましたが、石の工芸はあまり発展しませんでした。当時の工芸の全集を見ても、石の作品は石灯籠程度で、硯が注目されることはほとんどありませんでした。

MOA美術館の内田篤呉先生がまとめられた硯箱の本をご覧ください。その最初に載っている洲浜の硯箱は、伝世品としては最古の作例です。この頃は、四隅のくぼんだ形が硯箱にも反映されていて、秀逸な硯を大事に納めたいという意図が伝わります。ところが、漆工芸が盛んな日本の工芸では、次第に硯箱の造形のほうが、工芸品として重視されるようになっていきます。その後の日本では、硯の歴史といえば、ほぼ硯箱の歴史で、硯の造形が主役になることはありませんでした。

硯箱といえば、江戸時代の画家の緒方光琳が有名で、それまでのただ平らな硯箱ではなく、創意にあふれた造形のものを作っています。住江蒔絵硯箱(すみのえまきえすずりばこ)は、硯の墨を磨る部分が盛り上がっていて、それが硯箱全体の豊かな陵感の中にぴったり嵌まっています。それまで硯箱の中での硯の造形は控えめでしたが、光琳の硯箱だけは、それに応じた硯の造形もしっかり考えられているのが感じられます。まとめると、硯自身の造形が、硯を主体として、追求されてこなかったということです。あくまでも、硯箱の造形や意匠の添え物としての硯でしかなかったわけです。

中国の硯と鈍斎・英斎

これは図書館にも展示されている8代鈍斎の硯「蓮葉硯」です。その名の通り、裏には蓮の葉が彫られています。この硯は日本オリジナルの意匠ではなくて、中国でよくあるタイプのデザインです。ただ、葉をゆったり配置して、表の彫刻を控えめにしている部分は、日本的なセンスが取り入れられているようにも思います。それでも造形の大元になるオリジナリティという点で言うと、中国の意匠から強く影響を受けているように見えます。

これは中国で13世紀に作られた蘭亭硯(らんていけん)という硯です。中国では、唐の時代に端渓硯(たんけいけん)、歙州硯(きゅうじゅうけん)、洮河緑石(とうがりょくせき)という名石が発見されて、硯の基礎が整いました。蘭亭硯というのは、蘭亭で曲水の宴が開かれている様子をデザインした、中国を代表する硯です。見て分かるように、彫刻がたくさんありますが、墨を磨るところは小さくて、明らかに実用を考えて作られていません。書斎の中心にあるオブジェのひとつとして作られたもので、石の来歴や由緒を重視した硯です。これをお見せしたのは、中国の硯のセンスを見てもらいたかったからです。中国の硯はこれでもかというくらい彫刻があって、日本の硯とは明らかに違うということが見て取れるかと思います。

それを踏まえて、鈍斎の「華紋硯」を見てください。硯の門構えの上にある花の扱いは和風の雰囲気漂う印象ですが、根本的なスタイルは中国の硯をベースにしています。海の中にぽっつりある芯円は、眼(がん)と言われる虫の化石で、中国で珍重されているものです。

こちらは鈍斎の孫の英斎が作った硯で、猿面硯(えんめんけん)という伝統的なデザインです。シンプルに見えますが、作るのがとても難しい硯です。大正7(1918)年に彫られたもので、裏面には昇仙渓の北にある金櫻神社に原型の硯があると書いてあります。この話は私が小さい頃から伝説のように聞かされていましたが、実際に確認したことはありませんでした。それが今年の3月、國學院大学で、日本の硯を集大成した展覧会があって、その前調査で金櫻神社を訪れたところ、初めて伝説の猿面硯を見ることができました。英斎のものとほぼ同じ形で、石質は今とかなり違っていますが、解析すると雨畑で採られた石とのことでした。

以上のように、鈍斎、英斎の硯は、意匠的には和風の感性を取り入れながらも、そのベースには中国の硯があって、日本独自の硯としての造形はまだ完成されていませんでした。

日本独自の硯を生み出した静軒

日本独自の硯の彫刻を作り出したのは、祖父の静軒だと思います。これは図書館に展示されている「河鹿硯」です。5匹の河鹿蛙(かじかがえる)が海を覗いていたり、陸をおもんばかっていたり、三者三様に異なる表情を見せています。このデザインのベースにあるのは、日本画の世界です。日本画特有の、目が集中するところはしっかり描くけれど、描かれていない空間にも緊張感がある、という点が共通しています。写生をもとにした造形で、彫られていない空間も上手く生かしているように見えます。

これは鶴の彫刻がある「九皐硯」で、儒教の古典である詩経が由来になっています。九皐(きゅうこう)というのは、深く曲がりくねった沢や深遠な場所という意味があって、山奥で鶴がひと声鳴くと、それは天にも届くような美しい声で響き渡ります。詩経には、「鶴九皐に鳴き、その声は天に聞こえる」とあり、世間から離れて隠れ住んでいても、優れた賢人の才能や名声は世に広まる、という意味で書かれています。鶴のデザインは顔のところだけは緻密に彫られていますが、全体のデザインは抽象化された美しいもので、これは近代的な硯の造形として画期的なものだったと思います。静軒は自信があったようで、かなりの数を作っています。

明治期以降、日本の工芸を発展させたのは、それまで武具を作っていた工人で、その技術を身近なものに傾注したことで一時代を築きました。そんな世の中の流れを受けて、鈍斎、英斎、静軒は日本独自の硯を生み出しました。この写真の一番右が静軒で、一番左にいるのは、五・一五事件で暗殺された犬養毅です。犬飼毅は様々な場所に自筆を残していますが、達筆で、しかも文房四宝に詳しくて、関連本も執筆しています。犬養とは英斎の頃からお付き合いがありましたが、特に静軒を可愛がってくれたようで、生活面で指導を受けたり、色々な方々を紹介してもらったりして、日本独自の硯の造形を作るために強い力添えをいただいたようです。

抽象的になった誠の硯

父の誠の作品は、いたってシンプルです。静軒の硯が、日本画のような自然の風物を写生して造形していったのに対して、父の時代は、海外の美術書が入ってきた影響もあり、簡素な造形を構成しました。

これは「日月硯」といって、私が一番好きな父の代表作です。この抽象的な造形は、人の心を包むような柔らかい石質を生かした作りになっている例ではないかと思います。

こちらは、箱書きも記録もなかったので、私が勝手に「峻陵硯」と呼んでいるものです。これもシンプルで筆先の立った造形になっていて、時代の感性に合った硯を父は作っていました。

「方硯」という作品、これも飾りっけのない、屋根瓦をひっくり返したような形で、これも硯石の柔らかさがあってこその造形になっています。こういった抽象的な硯を父は作っていました。

弥太郎の硯

私は父の作っていた抽象的な形をベースにしながら、私なりの作家の世界を追求しています。これは「環池硯」といって、実はかなり前の作品ですが、分かりやすくてアピールが強い作品なので、ついこれを代表作として出してしまいます。

次は図書館に展示している「蝶想硯」という作品です。硯の石というのは柔らかい石でありながら粘り気があるので、ここまで薄いと割れそうに見えますが意外と強度があります。一時期は、こんな近代的なシャープな薄さを強調した作品を作っていました。

今はもったりした行間のある作品を追求しています。なぜかというと、私自身の硯に対する考え方が変わってきたからです。硯というのは、墨を磨るための道具ですが、それだけではありません。硯の石は柔らかくて、人の心を包み込むように、落ち着きをもたらしてくれるような石です。硯本来のあり方というのは、どっしり机上にあって、石自身の柔らかい存在感によって、心を落ち着ける。そこで墨を磨ると、墨自身の匂いと、硯と墨が触れ合う感触が絡み合って、心が安らいでくる。そのことによって、雑多な日常から離れた、自分だけの創造的な時間に意識を転換できる、そんな舞台装置としての役割があるのです。どっしりした、ゆったりした形が、硯自身の本来あるべき姿なんじゃないか、と最近は思い始めています。

一方、私本来の造形的な感性では、重さを感じさせない、シャープで軽々したものが得意でした。藝大では、御影石のような重量感のある石を使いながら軽快な作品を作ろう、というが私のコンセプトでした。石の質感は好きだけれど、重量感を取り払いたくて、御影石を薄くしてたくさん穴を開けてみたり、えぐって、えぐって、表面だけが石のかなりコンセプチュアルな硯を作ったりしていました。今は、硯本来の役割と私の感性の狭間で、自分の作風を育てていけたらと試行錯誤している最中です。もし、思い描く理想を自分なりに実現できれば、工芸ではあるけれども、現代彫刻としてのアピールができるのではないか、と考えて模索しています。

工芸とアートと硯

工芸に興味のある人は、工芸とアートはどう違うんだろう、と考えると思います。私も学生の頃、工芸論で工芸の位置づけを一生懸命考えていました。私が考える工芸というのは、作る範囲が決まっているモノのことです。大学時代、彫刻家の友人が「工芸の連中は壺ばっかり作って何が面白いんだろうな」という言い方をしていたことをよく覚えています。その時、私は反論したくても言葉が見つからなかったのですが、今なら自分なりにそれを説明できます。同じことを繰り返して、決まりきったものを作る。実は、それが面白いし、それが工芸の価値なのです。ある陶芸家の方は上手く轆轤(ろくろ)を引くコツを聞かれると、「何も考えないことが大事」と答えたそうです。何も考えてないで引くためには、相当数こなして、考えずに引けるようになっていなければなりません。無心になって作ることによって、自分が空の存在になると、天からの贈り物をもらえることがあります。それは降ってくるとしか言いようがないのだけれど、何も考えないがゆえに、宇宙のエネルギーと一体化した状態になります。素材と自分が一体化して作るから美しい素直な形になる。私も調子良く作っているときというのは、頭で考えることなく自然に手が動いています。全部自分でコントロールしようと思わないで、ある部分を自然に任せてしまう。手離すことによって自分を超えたものが入ってくるのです。自分という小さな存在を遥かに超えたものが、作品の中に入ってくるというのは、工芸のすばらしいことだと思います。

一方、アートというのは新しい地平を開くことです。一般の人が見てこなかった見方で物を見て、その見方を提示することがアートの世界だと考えています。だから同じ芸術といっても、方向性が違うわけです。世界は日々変化していて、言葉だって古びます。そうなってくると、新しい言葉が必要になってくる。新しい意味づけが必要になってくる。とは言っても、まだ言語化できないものというのは、たくさんあって、それを一早い感性で何らかの形にして提示するというのが、アートの本質だと私は思っています。

このような考えから、自分の中では、工芸とアートの世界に分け隔てがありました。工芸は、アートの世界、純粋芸術の世界とは別物なんだという偏見です。そういう考え方が根底にあったので、アートを作る自分と、伝統工芸である硯を作る自分は別人格だと思っていました。ですから、伝統工芸展に出すときの作家名は、彌太郎の文字を使って、アート作品では弥太郎を名乗っていました。以前はそういう意識がありましたが、だんだん、硯自身も自分なりのものができてくるにつれて、関係ないと思うようになりました。硯の造形を極めていけば、自分の内面に向き合うための、アートとしての存在にも昇華できると信じています。さらに、アートとしての硯を確立して、海外の方にも評価してもらいたいという野望も持っています。

子どもたちに硯を

子どもたちには、硯を使ったワークショップを積極的に行っています。小学3年生になると書写の時間が始まりますが、樹脂の硯に墨汁を溜めて字を書くだけで、実際に硯で墨を磨った経験のある子は1クラスに1人程度しかいません。ではなぜ私は、大量生産された安価で壊れにくい硯ではなく、石の硯を作っているのでしょうか。それを考えてもらいたいがゆえに、墨を磨ってもらいます。はじめは落ち着かなかった子も、硯と墨が触れ合う感触や豊かな香りで、次第に気持ちが落ち着いてきます。そこから、様々な色や濃さの墨を様々な道具で自由に書いてもらいます。自由に遊んでもらうのは、無邪気に墨自身の色や表情を楽しんでもらうためです。この先、字を書くことが面白いと思った子が、もっと世界を広げたいと考えたときに、この体験をきっかけにしてほしいと思っています。これからも子どもたちが体を使って硯と墨に触れあう機会を作っていくつもりです。それが硯の世界、ひいては書の世界の裾野を広げると信じています。

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