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REPORT-レポート

1/20 子どもの読書応援トークイベント〈初めて語られる『だじゃれどうぶつ図鑑』創作秘話!〉

初めて語られる『だじゃれどうぶつ図鑑』創作秘話 ~洒落た話、洒落にならない話、好き力全開!~

 

本トークイベントは、開館記念イベント第2弾として企画したものです。これに先駆けて薮内正幸さんの原画展を1月5日から開催し、当日の午前には、ワークショップ「富士川町立図書館スペシャル『だじゃれどうぶつ図鑑』を作ろう」が行われ、子どもたちのオリジナルの「だじゃれ動物」を作成しました。このトークイベントは、動物画家の薮内正幸さんが絵を手がけて、絵本作家のスギヤマカナヨさんが文章を担当した『だじゃれどうぶつ図鑑』(偕成社)制作の舞台裏に迫るという初めての企画。薮内正幸さんの長男で薮内正幸美術館館長の藪内竜太さんと絵本作家スギヤマカナヨさんの笑いあり、涙ありの対談の一部をご紹介します。

 

藪内竜太さんとスギヤマカナヨさん

 

生い立ちと愛読書、そして外の世界へ

スギヤマカナヨさん(以下、カナヨ) : 薮内さんは8歳の時に『動物とわたしたち』を買ってもらったことがきっかけで動物画家の道に進んだのだと聞きました。

薮内竜太さん(以下、竜太) : 薮内は5歳で終戦を迎えているので、今のようにテレビやインターネット等で動物を見る機会はありません。動物園に行っても記録するカメラがなければ自分で描くしかありません。しかし家に帰って描こうにもさっき感動した動物をうまく描けずに悔しい思いをする。そこで「今日はこの動物」と決め、その前で一日中観察することで描けるようになったようです。そんな中で買ってもらった『動物とわたしたち』という本は生涯の宝物として大事にしていたようで、亡くなった時に遺品を整理していると仕事部屋の本棚の手の届くところに置いてありました。この本の前書きで鳥類学者の高島春雄さんは「説明しきれない部分があるので不明な点があれば手紙をください」と書いています。少年薮内は喜び勇んで高島さんに質問の手紙を書くと、驚いたことにお返事をいただけた。多忙であり学者という立場にあっても、子どもからの真剣な問いには、正面から答えています。そんな大人と出会えたということが、“好き”を持っていた薮内にとって一番大きかったと思います。また疑問が沸けば手紙を書くという繰り返しで、その手紙の末尾には必ず絵を描いていたらしく、その絵は見るたびに上達していきました。さらに高島さんから当時日本最高峰の哺乳類学者だった今泉吉典先生(『ざんねんないきもの辞典』監修今泉忠明さん父)をご紹介いただいて、今泉さんとも手紙のやり取りを始めました。このやり取りを高校生まで続けた結果がその後の仕事に繋がっていますから、この本がきっかけで動物画家になったと言って良いかと思います。

カナヨ : 私が子どもの頃、繰り返し読んだのはこの『犬のひみつ』という本で、小さい頃の夢は犬の訓練士でした。そこで私は「犬ノート(全5巻)」というものを作りまして、犬の原産国を世界地図に記しています。私の時代もコンビニはありませんし、コピーは一枚1000円くらいしましたから描くしかありませんでした。学校図書館にあるものは早々に読み切ってしまい、公共図書館に行って大人が読むような本を借りてきては骨格を描いていました。読むものがなくなると生物学に興味を持ってブチの遺伝子について斑紋とローンに関する本を模写しました。父親と母親の斑紋次第で子どもにどう現れるかという遺伝学に関する内容です。先ほど薮内さんのお手紙の話がありましたが、私も好きな気持ちが行動に繋がったことがありました。小学5年生の時、TBSドラマ「刑事犬カール」の唐突な最終回に衝撃を受けた私は、自宅から郵便局まで1時間歩いて「カール、最終回にしないでください」と電報を打つとTBSから返事がきて次番組にカールがゲスト出演することを教えてくれました。薮内さんと同じように“好きな気持ち”がアクションに繋がった一例です。私は新聞を切り抜いたり好きな犬の本を読んだりしていましたが、溢れる思いを誰かに伝えたくて手紙を書くことで外の世界と結びつきました。 略年譜で19歳の時を見ると、藪内さんは今泉さんの指導を受けていて私も恩師の日下さんに師事している頃です。そして24歳。デビューの歳も同じでした。

竜太 : 福音館書店に世界一詳しい哺乳類図鑑を作るという企画があって、文章は今泉さんが担当になりました。絵画担当を決める際に今泉さんは「専門的な動物を描ける絵描きは今の日本にはいないけれど、一人可能性のある高校生がいるよ」と福音館の松居直さんに紹介してくださいました。高校卒業後、福音館に就職して最初の2年間は今泉さんに師事して動物の骨格を徹底的に勉強しました。晩年でも猫を描く時は、頭の中で骨の猫を歩かせてその骨が良いポーズをしたら、それを元に下絵にしています。レオナルド・ダ・ヴィンチが徹底して人間の解剖をやったように、藪内は朝から晩まで動物の骨を描いていました。その図鑑は諸般の事情で出版できませんでしたが、動物を描くスキルとしては世界に出しても恥ずかしくないと言われるまでの動物画家になっていました。出版予定の図鑑がなくなり、代わりに24歳の時に手掛けたのがデビュー作『くちばし』でした。

カナヨ : 私は中高生時代には絵を描かず、部活も剣道部で部長までやっておりました。ただ警察犬の訓練士になりたいという夢は持ち続けていました。高校2年生の進路を決める時に大学に進学してから警察犬の訓練学校に行こうと考えて、絵を描くのが好きだったので進学先は芸大を考えました。先生からは「剣道しかやってこなかったのに、芸大は難しいだろう。名前が似ている学芸大は美術科もあるよ」と教えてもらいました。それがきっかけで東京学芸大に進んだわけですが、美術科では毎日何かしらを制作していてとても楽しい日々を過ごしていました。教育実習では教員の仕事にやりがいも感じていましたが、制作の時間が限られるためその欲求を子どもたちの教材づくりにぶつけていました。作った教材に子どもたちがとても喜んでくれて、「こういう仕事があったら良いな」と思ったのが絵本作家になるきっかけでした。そこから卒業制作で作ったものが『K・スギャーマ博士の動物図鑑』という想像上の100匹の生き物図鑑です。これが銀座の伊東屋さんで展示され、フリーのプロデューサーに「これを絵本にしませんか」と言われてデビューとなりました。この時にもう一つこれをゲームにする話もありまして動物同士を戦わせたいという話でした。結局実現しませんでしたが、提案した方は後にゲーム業界を牽引する久夛良木(くたらぎ)さんという方でした。この想像上の生き物を見て子どもたちはよく「ポケモンに似ている」と言いますが実はこちらが先なのです!その6年後に100種類の想像上の植物図鑑を出版しました。薮内さんが年々上達していたという話と同様、動物図鑑の頃に比べるとこちらでは相当上手くなっています。略年譜に戻りまして、27歳の時に再び共通点がありました。

 

奇しくも、同じ歳にアフリカとタイに行く

竜太 : 薮内は27歳の時にアフリカに行っています。子どもの時からアフリカやサバンナに憧れて頭の中でイメージが暴走するほどに妄想を広げて生のライオンやキリン、サイを見たくて悶々としていました。それが福音館にいる時、アフリカに行くという企画が聞こえてきて飛び乗った訳です。その時のパンフレットを見ると〈古賀忠道先生と共にアフリカ自然動物園めぐりの旅 21日間〉とありその日数に驚かされます。21日間で61万円。今の金額に換算すると法外な金額です。海外旅行が珍しい時代、古賀忠道さん(当時上野動物園園長)のような学者級の方が5、6人参加する旅行に27歳の若造がひとり紛れ込んだ形になります。大興奮で帰ってきたようで斎藤惇夫さんはその当時の様子を「何かにつけてアフリカの話をしていた」と語っています。その頃に出版された動物図鑑に薮内が記録用に撮った写真が使われているのは、たとえプロの動物カメラマンでも易々とアフリカに行けない時代だったということでしょう。そしてカナヨさんがアフリカに行ったのも27歳だったという。

カナヨ : 私は当時、アメリカに住んでいましたが、帰国前にアフリカに行きたいと考えていました。絵本作家という形でデビューはしましたが、最初の8ヶ月はステーショナリーの会社で手帳やカレンダーを作っていました。資料として使っていたのが『世界の動物 分類と飼育 食肉目』で薮内さんがすべて描いています。タッチは違いますが薮内さんの絵を参考にしながらステーショナリーを作っていましたし、WWF(世界自然保護基金)の新聞で動物を描く機会も多くありました。その時に言われたのは「写真だけ見るな」ということ。動物の体のつくりには理由があって生態を理解していなければ描けないと言われていました。だからこの本をひたすら読みながら描いていましたが、この時は薮内さんのことを認識していませんでした。この『ゾウの本』を写真の図鑑にしなかったのは、興味を持つ子だけに向けた本にせず、すべて絵にすることで間口を広げて敷居を下げようと考えたからです。この本を描くためにも実際にアフリカに行ってゾウを見ようと思いました。アフリカのツァボというところにゾウの孤児院があるのですが、その話をした時に竜太さんと話が通じるところがありました。もっと驚いたのが30~31歳の時にゾウの関係でタイに行った話をした時です。

竜太 : 薮内は生涯で2回しか海外に行っていませんが、その2回目が31歳の時、福音館退社後に妻の要望で連れ出された行き先がタイ、ビルマ、マレーシアです。その後、妻は戸田杏子というペンネームでタイ料理研究家という肩書きを持ちますからタイというのは我が家にとって大きなキーワードになります。それが薮内31歳、戸田30歳の時です。そして、同じ歳でカナヨさんもタイに行ったという。

カナヨ : 私はその時タイにあるゾウの専門病院に行きました。アフリカと違いタイではゾウが家畜になっています。病院では、寝ないで働かせるために覚醒剤を打たれて捨てられたゾウの治療をしていました。そんな話を竜太さんとしながら不思議な縁を感じていました。決定的に薮内さんと私の縁が繋がるのは薮内さんが亡くなる直前です。

裏薮で繋がる縁、『だじゃれどうぶつ図鑑』誕生

竜太 : 略年譜でいうと薮内が亡くなる前年、59歳の時です。この年の4月に福音館の月刊誌「こどものとも012」で『 ここよ ここよ』という作品を手掛けています。薮内からすれば福音館からの通常の仕事依頼で企画や文章を考えて描いたものでしたが、実はこの依頼が来る前にカナヨさんにお話があったそうですね。

カナヨ : アメリカから帰国した後、最初に福音館から「こどものとも012」の企画をいただきました。福音館が赤ちゃん絵本を始めてまだ2、3年目の頃です。神沢利子さんの原稿をいただいて「これに動物の挿絵を描いてください」と言われました。私も若かったですし、天下の福音館からの仕事依頼なので一生懸命描くわけです。最初にこんな絵を描きました。(以降、描いた絵をスクリーンに映す)それから迷走が続いて最終的には和紙を使った切り絵や版画にまで手を出しました。そんな時に担当編集者に「スギヤマさんはオリジナルの人かもね」と体よくダメ出しされて落胆していました。結局この企画は私が降りることになり、その後誰が絵を描いたのか気になって調べたらそれが薮内さんでした。見た時の感想は、この文章には薮内さんの絵以外考えられないと思って感服したことを覚えています。私の中では薮内さんと繋がりができたと勝手に思っていましたが、結局お会いできないまま亡くなられました。

竜太 : お配りした資料の「大画伯が遺した『裏薮』の世界」をご覧ください。当時朝日新聞のAERAに掲載された記事ですが、ここで初めて『裏薮』というものが世に出ました。今回いくつか原画を展示しましたが、見ての通り、鉛筆のスケッチのような絵です。これは東京動物園協会の会員向け月刊誌の挿絵です。テーマに合わせて挿絵をスケッチ帳に描きますが、担当者に剥き出しで渡すわけにはいかないので、手近な封筒に入れて渡していました。それがある頃から担当者宛に挿絵の動物にちなんだダジャレ絵を封筒に描くようになりました。これを先方が気に入ってすべて保管してくださっていました。関西人の気質でくだらないダジャレを言うのが常だったような人が描いたものなので、仕事のスケッチ絵は15分程度で描く一方で、ダジャレ絵には平気で3、4時間費やしていました。『ヤブさん』という本の中で担当編集者の黒田恭子さんがこの顛末について書いてくださっていますが、黒田さんに喜んでほしいがためにひっそりと描いていたものを今頃晒されているのですから薮内もあの世で驚いていることでしょう。戸田は返してもらった絵を形にしたいと色々な編集者に声を掛けて偕成社の小宮山いつかさんに委ねることになりました。そして小宮山さんからカナヨさんにお声掛けしてくださった、という形でしょうか。

カナヨ : 小宮山さんとは長い付き合いで『ほんちゃん』をはじめとして色々な本を作ってきました。昨日の打ち合わせで小宮山さんが私に話を持ってきた理由について話題になりましたが『K・スギャーマ博士の動物図鑑』での縁がきっかけですか?(小宮山さんが大きく頷く)まず私の方でリストをいただいて茶封筒の動物たちを図鑑にしようと考えました。そしてこの本では薮内さんの絵を生かすように私は文章のみ担当することにしました。本の中では左に実在する動物の解説を書いて、右にダジャレ動物の解説も書きます。その解説もできるだけリンクさせるように、生息地を対応させたり、鳴き声に共通性を持たせたりしています。藪内さんは黒田さんとの個人的なやり取りの中で作っているのでコンプライアンスのことは考えていません。編集部からこれは使えないと言われた名前は変更しなければいけませんでした。名前を変えるとその生態や解説もそこから考え出さないといけないものがありました。たとえば、ここにシマリスのだじゃれ動物「ヨコシマリス」がありますが、実は薮内さんの原案では「年増リス」でした。解説は「ペットとして飼われているものの中に稀にいる。かわいいふりをして人間のおやつなどを、こっそりと頬袋に詰め込んで隠す。背中の縞模様は縦だが、心は邪なリス」に変更しています。それから薮内さんはハゲネタが好きでした。一番悩んだのは原案「テングハゲジネズミ」を「デンキハネンジネズミ」に変えるというもの。生態は「日当たりの良いところに生息。暗いところが苦手で、暗闇では無意識に「光れ」とネンジ(念じ)る。すると、尾にデンキ(電気)が発生し、体内を流れて頭が光る。おかげで、暗い巣穴でも安心して眠ることができる。昼行性。」としました。

竜太 : 原案を見ると“禿”で“痔”のネズミなので、お子様向けの本にはよろしくなかろうという判断です。

カナヨ : もうひとつ、これはビントロングという珍しい動物ですが、原案「ハゲチャビントロング」を「キットロング」に変えています。解説では「南アジアや東南アジアなどの森林に生息。全身の毛は長く毛ぶかいが、頭には毛がない。単独で行動し、たまに仲間の姿を見ても、自分だけは、頭の毛が「きっとロング(長い)」だと信じて疑わない。」としています。

竜太 : 編集の苦労話として、掲載するにあたって原画下地の茶色を除かなければいけないけれど、上に塗った色も一緒に消えてしまい困ったということがありました。ご覧いただくとわかりますが、原画では蛍光ペンを多用しています。蛍光ペンというのはあっという間に色が消えてしまいます。だから今では私の美術館でも展示することがほとんどありません。今回テーマに沿うように図書館内での展示も考えましたが、1ヶ月間これを晒すのは保存上厳しいと判断しました。ここにある原画は今日この会場で展示するためだけに額装していますのでぜひご覧ください。ただ、先ほどのご苦労された話からして私の中でこれはカナヨさんの本という感覚です。挿絵を偶々薮内が担当しただけだと思っています。

カナヨ : 「どうする?このハゲネタ!」と執筆中に困ったときは薮内さんに「どうにかしてください!」と念じていました。そうすると不思議と言葉が降りてくることがあって「こうしなよ」と助言してくれているような気がしました。そういうことを繰り返しながら、私の中では本当に薮内さんと交信しながら一緒に作っているような気持ちでした。今日この出版に関わった編集者の小宮山さんがいらっしゃるので一言いただけませんか?実際のご苦労や原稿を引受けてから思ったことなどを簡単に伺えればと思います。

小宮山いつかさん(以下、小宮山) : 小宮山と申します。本は企画を預かってから数年後に出版する場合が多いですが、この本は長期間預かったままになっていたので、竜太さんは書籍化を諦めていると思っていました。誰に組んでもらうか悩む中で、以前から付き合いがあったとはいえスギヤマさんがふっと降りてきたのは幸運でした。スギヤマさんのダジャレのセンスなら大丈夫に違いないと思ってお願いをしましたが、原案を見た時に「行けるよ」と背中を押してくれて、やっと動き出せるという高揚感を覚えていました。そこから竜太さんにも快諾いただいて本格的に始動しました。

竜太 : 戸田は喘息で病気がちだったこともあって子どもの頃は岩波少年文庫を読み耽るような文学少女でした。子どもの頃は東京の荻窪に住んでいましたが、近くにお住いの石井桃子さんのかつら文庫に自転車で通って入り浸っていました。短大で児童文学のことを学んだあと、卒業時に石井さんから福音館を紹介していただいて入社しました。その後は編集者として『いやいやえん』や『エルマーのぼうけん』を担当していました。そういう経緯もあって、色々な人から声をかけられて育て上げてもらったという感覚があったと思います。退職してからもヘルプで編集をやったり、タイ料理の研究本を出版したりする中で、若い編集者を自宅に呼んでタイ料理パーティーを月1回程度開いていました。そこに小宮山さんが来てくださいました。戸田からするとピンとくるものがあったようで多くの編集者の中から彼女を選んで託しています。

小宮山 : 以前の勤務先では絵本に近い分野に携わっていましたが、入社2ヶ月頃、高校生の時から好きだった『みんなのかお』(戸田杏子/文)という写真絵本のカメラマンを訪ねたら戸田さんがおられて「あなた、これから来なさい」と言われて何度も遊びに行くようになりました。その時に会社員だった竜太さんも1歳の娘さんを連れて来られていました。編集の世界ではこういうことが日常なのかと思っていましたが、他ではそのようなことはなかったので、戸田さんの近くにいられたということは大きな財産になりました。今、偕成社にいるのは戸田さんのおかげだと思っていたら涙が出てくるような気持ちです。戸田さんは本当に凄い女性で、私はただそばで静かにしていただけですが、たくさんのお話を聞く中で「あんたこれやんなさい、あれやんなさい」と話される姿がとても愉快でした。その時に蒔かれた種が今日みたいな日を連れてきてくれたということに「本当ありがとうございます」という気持ちが溢れてきます。

大人たちが好き力の推進力に

カナヨ : 竜太さんとやり取りをして印象的なのは、偉大な両親の下でも距離をとって親は親、自分は自分というスタンスを持ち続けていることでとても大事なことだと思いました。私は高校生の息子たちについつい口煩い親になってしまいがちだったので、その話を聞いて子どもに対して「私は私、あなたはあなた」という気持ちで残り少ない子育てに臨みたいと思います。

竜太 : 子どもが好きなものを認めてあげられるかどうかが大事です。いくら今の時代でも子どもが絵描きになると言い張っても絵ばかり描いていたら心配でしょうし、ましてや動物しか描かずに四つ足で歩いていたら不安になりますよね。結果として絵描きになれたから良いけれど、なれなかったらどんな大人になっていたのか。価値観が凝り固まっていてもおかしくない明治生まれの両親が薮内には好きなことやらせていました。当時の薮内家は、工場を経営していて戦争特需もあって相当羽振りが良かったようです。ところがある時に会社を乗っ取られて借金まみれになります。それが薮内3、4歳の時です。物心ついた時から貧しい環境だったので辛いという感覚はないけれど、物がありません。子どものころに描けた絵は多くないはずです。それが福音館入社後に母親から送られた荷物をみると小学生時代のスクラップブックやノートが入っていて薮内本人が驚いています。この当時の親が子どもの行く末を考えて厳しい家庭状況にもかかわらず息子の描いたものを大事に持っていたことに心打たれますよね。私が大阪の祖父母に会いに行くと「正幸があんたぐらいの年にはもうこれくらい描けたよ」と孫に向かって息子自慢を始めたのには呆れました。4人兄弟の末っ子だから可愛がられたでしょうし、放任だったのかもしれませんが、結果的に子どもが好きなことを全面的に理解して応援しています。今泉さんや高島さんは子どもからの手紙にも丁寧に返事を書いて、専門外のことに関しては「わかりません」と言っていますし、サイの生息数の矛盾を指摘すると「本当ですね。あなたの言う通りです。また、何か気づいたら教えてください」と答えて下さいました。動物学者が高校生からの指摘に「また教えてください」と言う。それができる大人というのは今なかなかいないと思います。そういう大人が周りにいたことが薮内にとって大きかったと思います。

カナヨ : そうありたいと思います。『千と千尋の神隠し』の好きなセリフで「一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで」というものがあります。きっと薮内さんも一つ一つのできごとは大人になって忘れているかもしれないけど、大人からしてもらったこと、伝えられた言葉が細胞レベルで生きる力になっていたのだと思います。きっと私たちもそういう愛情を受けて今ここにいると思うので、この先、そういう大人を目指していきたいですよね!

 

ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

なお、ご参加いただいた皆様からの能登へのチャリティーは23,465円となりました。スギヤマカナヨさんより〈社会福祉法人石川県共同募金会 令和6年能登半島地震災害義援金〉へ〈スギヤマカナヨ・富士川町立図書館イベント〉として寄付をいたしました。

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